探究 三浦つとむ・滝村隆一に学ぶ

社会科学と人間科学の方法的差異
   −『国家論大綱』と三浦言語学−



? はじめに−『国家論大綱』の意義
(1) 三浦の規範一般論と滝村の社会的規範論の異同
【補論  <普遍>と<一般>の弁証法的定義】
(2) ヘ−ゲル「限度」論と社会的規範論
(3) sozialwisenschaftとしての社会科学
(4) 社会科学的に特殊な言語表現の位置付け方
(5) 認識論的規範論から「国家意志説」への規定性



(1) 三浦の規範一般論と滝村の社会的規範論の異同
 まず、次のような問いを設けてみよう。

[言語学で構成された意志・規範論は、他の学問領域、たとえば社会科学としての権力論・国家論・政治学で必要とされる意志・規範論と、<まったく同じもの>と言えるだろうか?……。言語学で有効な意志・規範論が、国家論・政治学、とりわけその「論理的端緒」をなす権力論においても、同じ有効性を発揮するであろうか?……]

 答えはいうまでもなく否。そんなわけがないのである。三浦の意志・規範論は、認 識論・言語学の前提的基礎、いわば言語学という建物を建設するための<礎石>であ り、滝村の意志・規範論は、権力論・国家論を構築するための<礎石>である。
 その上に乗っかる建物が違えば、当然<礎石>は違ってくる。言語学の<礎石>に 国家論という建物は乗らないし、政治学の<礎石>に言語学はフィットしない。両者 はともに「規範」を論じながら、それぞれの現実の学的対象領域と、それに規定され た学的方法と理論的特殊性に応じて、「規範」を理論的に扱う次元と視角が、異なっ ている。この点を、三浦と滝村に即して考えていくことにしよう。

  三浦の主著『認識と言語の理論』(勁草書房)は、まず言語を科学的に解明する必須 の前提として、まるまる一冊を費やし「認識の発展」を論じている。
そこでの三浦「規範」の定義は次のようなものである。 「われわれには常識的に良心とよばれているところの精神活動があって、さまざまな機会に心の中で『かくせよ』『かくすべからず』と命令してくるのを経験している。……(中略)……このような心の中から自分自身になされる命令を規範とよぶ……」「これ(規範)は認識の受け取る一つの社会的性格であり、われわれが社会的関係で規定されながらもさらに社会的な関係を発展させるためにつくり出す、意志の特殊な形態である」(『認識と言語の理論』第一部 149頁)  この規範論の特質は、

A <認識主体>としての人間の精神活動(頭の中で観念的に対象化された意志=規範の生成)に即した「規範」論であり、<認識論的規範論>とでもいうべきものである。

 そこでは、人間(認識主体)の認識にスポットを合わせ、「社会的存在」としての人間個体が、社会生活の中で「精神的に」相互に創り合う本質的な精神的交通関係、「規範」を創り出す過程を考察している。人間は、<本質>的に社会的存在でありながら、しかし<直接>的には「個人」としてしか存在しえない。そんな<人間個体>が、社会生活の中で、みずからの行動を直接規定する実践的認識=意志を、いかに生成−発展させていくか?……、<認識主体>の内的世界に即した把握である。【補遺 言語学と政治学における「意志の観念的対象化」論の相違】

B 様々な「規範の諸形態」の中に、「規範」としての内在的本質性を見いだす「規 範」一般論である。

 三浦は『認識と言語の理論』第一部の中で、「個別規範」のような「簡単な規範」にも、 「すでに規範の本質が示されている」(154頁)と述べている。 「個別規範」「特殊規範」「普遍規範」(全体意志)は、その「規範」の及ぶ範囲が、「個人」という「個別」か、「特殊な人々」という「特殊」か、それとも「社会全体に適用」される「普遍」かという、適 用範囲のレベルにおいて相違はあれども、それぞれが、「規範」としての本質を内在させている。
 規範を自ら創出する場合も、他者の規範を「頭の中」で主体的に「複製」する場合も、互いに合意した「共通の意志」を成立させる場合も、「自然成長的」に規範が「頭の中」に「浸透」する場合も、すべて<意志の観念的対象化>として、論理的に共通しているものと見做す。
 そういうレベルで、三浦は、規範一般論を提出しているように思う。

では、三浦「規範」論を継承する滝村「社会的規範」論はいかなるものか?……。まず、三浦「規範」論からの継承性の面から、滝村の「規範」論を見てみることにしよう。

「規範とは、我々が社会的生活において、ときどきの多様な、ときにはのっぴきなら ない必要にもとづいて創り出した、人々の実践と活動を共通に規制し、拘束するとこ ろの、特殊な<取り決め>といってよかろう」(『大綱』上巻81頁)

 三浦にあっては、「取り決め」や「ルール」あるいは「約束ごと」というのは、「規範の様々な形態の一つのあり方」である。ところが滝村にあっては、この「取り決め」というところに規範の定義を置き、権力論へと結実する「社会的規範」論が展開される。「……注意を要するのは、ひとたび決定された<取り決め>が、人々の実践的な活動 を<共通に規制し、拘束する からといって、必ずしもそれが、人々の<共通の意志> や<共通の観念>だとは、限らないということである。 もちろん、その如何は、もっ ぱら<取り決めの決定形態>の如何に、かかっている。したがって、<取り決め>と は、人々を<共通の意志>や<共通の観念>ではなく、人々を<共通に規制し、拘束 する社会的・一般的意志> なのである」(同上82頁)

「社会的規範とは、組織・制度に包摂された諸個人を、直接規制し拘束する、組織・ 制度としての一般意志にほかならない」(同上87頁)

 「取り決め」(規範)が「人々の<共通の意志>や<共通の観念>」かどうかは、 「取り決めの決定形態」にかかっている。民主的な意志決定形態ならば、「取り決め」 (規範)は、みんなで合意した「共通」の総意といえるだろう。しかし、自分(滝村) は、そんな意志内容の「共通」性などを問題にしているのではない。「取り決め」 (規範)の本質的性格は、それが、諸個人を遍く「共通」に拘束する<一般>性にあ る。この「人々を<共通に規制し、拘束する社会的・一般的意志>」が、滝村の「社会的規 範」の一般規定である。
 ここで注目すべきは、滝村が、「個別」「特殊」「普遍」に対応させた形で「普遍 的意志」とはせず、「一般的意志」としている点である。【補論  <普遍>と<一般>の弁証法的定義】

「一般的」とは、

(a) 「諸個人を共通に規制・拘束する」という意味で、「一般的」。すなわち、 「全体的」にして「普遍的」というレベル。

(b) もっとも発展した事象は、その事象を事象たらしめる「本質」的性格を、全 面的・全体的に開花・顕在化させているという意味で、一般的=典型的。

「一般」という概念は、(a)と(b)の二重のレベルで成り立っており、しかも、 この二重のレベルは、必然的な関係にある。すなわち、「社会的規範」が、「諸個人 を共通に規制・拘束する」という<量>的範囲が、一般的=全体的=普遍的レベルに 達しているならば、その「社会的規範」は、その<本質的性格>を全面的に開花・発 展させているという意味で、一般的=典型的である。

  「<権力>現象は<組織>なくしてはありえない、とまでは言えないにしても、<組 織>あるところに全面的に開花し、展開している」(同上97頁)

「いうまでもなく、規範としての内部的な規制と拘束力をもっているのは、組織的・ 制度的規範であって、この意味でそ れは典型的な社会規範といえる」(同上93頁)

 滝村は、「組織的・制度的規範」を「典型的な社会的規範」と位置付け、その「組 織的・制度的規範」を理論的尺度に、「個別規範」「特殊規範」をそれぞれ「未熟な 形態」と位置付ける。では、その「典型」か否かの基準は、なにか?

「……人々が規範としての意志に、どの程度服従するかの如何は、もっぱらその処罰 規定の内容上の厳しさが、どの程度、 実際に貫徹されているか、にかかっている」 (91頁)

「社会規範」として「典型」か否かの基準は、その直接の在り方においては「罰則規 定」にどれだけの貫徹力があるかであり、これを本質的にみれば、罰則が貫徹するこ とで諸個人に及ぶ「内部的な規制と拘束力」の「規模と質」如何ということになる。
この点は、方法的に極めて重要である。
「個別規範」は、その「内部的な規制と拘束力」が、「規模と質」において「小さく 弱く」、そこにこそ、「個別規範」の「規範」としての「限界」がある。では、「特 殊的規範」はどうか?
「特殊的規範」としての「契約」を見れば分かるように、それに違反した当事者は、 法的訴追の対象になり、敗訴が確定すれば、圧倒的な「罰則規定の貫徹力」を身を以 て知ることになる(この点、三浦は「契約」に違反した者に対して「契約書」に「ものをいわせる」という事実的指 摘をしているが、その社会科学・政治学的な、理論的意味には注意を払っていない)
。  しかし、「契約」という「特殊的規範」も、「社会的規範」としては「限界」を持 っている。

「<契約>は、社会的諸関係の中で生まれた、特殊的規範である。それは、規範とし ての規制と拘束力を、自己自身の内にではなく、国家権力の保護という、<外部>に 求めなければならない点で、社会規範としては、生まれたばかりの赤子の段階にある」 (93頁)

「契約」段階の「規制と拘束力」は、「自己自身の内にではなく、国家権力の保護と いう、<外部>に求めなければならない」という点で、それは「個別規範」と同じく、 やはり「社会的規範」として<未熟>である。そういう未熟な段階を学的対象的素材 としては、「社会的規範」論を<本質>論的に構成できないし、<規範>論が<権力 >論に結実しない。

 以上、「社会性」のほとんどない「個別規範」を、「規範」の「論理的端緒」とし、 「特殊的規範」を、「社会規範」としては生まれたばかりの赤子の段階」にあるとす る発想に、<もっとも発展した典型的事象を正面に据えるべし>という<方法>が、 貫徹されていると、みて取れる。
 滝村に独自の方法とは、

<政治学の学的対象素材として正面に据えるべきものは、最も発展した政治的事象で ある。「最も発展した」というのは、その事象を事象たらしめる本質的・本来的性格 が、完成的に開花・顕現しているということであり、そういう典型的=一般的事象を 理論的に解明し、そこで獲得した一般理論を尺度にすることで、典型たらざる未熟な 事象が、なぜそれが未熟であるの?……理論的に把握できる>

 という発展段階論の方法である。
 このような<社会科学的に特殊な方法>に立脚している以上、国家論・政治学の社会的規範論では、三浦の認識論・言語学における「個別規範」「特殊規範」「普遍規範」の扱い方とは諸規範の位置づけ方が異なるのである。 三浦にあっては、様々な「規範の諸形態」のそれぞれの<相違>に焦点を合わせるのではなく、様々な「規範諸形態」のなかに規範としての内在的本質性を見いだす視座を取る。滝村の場合には、様々な「規範の諸形態」の<相違>すなわちそれぞれの発展段階レベルが問題になる。
 禁酒禁煙のような自己規律的な「個別規範」や「契約」などは、「組織的・制度的規範」が「典型的な社会的規範」であること、その「典型」性の基準が、「規範としての内部的な規制と 拘束力」にあることを、くっきり明瞭に浮き彫りにするために、典型たらざる未熟な形態として、取り上げられているにすぎない。
  また、「社会的規範」の一つである「言語規範」も、直接正面に据えられることはない。「言語規範」は、法律や、党・団体の綱領などとはまったく異なり、<直接>に政治的・経済的・文化的な社会的組織権力を構成する「組織・制度としての一般意志」ではないからである。

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