探究 三浦つとむ・滝村隆一に学ぶ
 社会科学と人間科学の方法的差異
   −『国家論大綱』と三浦言語学−


はじめに−本稿の基本的視角
(1) 三浦の規範一般論と滝村の社会的規範論の異同
【補論  <普遍>と<一般>の弁証法的定義】
(2) ヘ−ゲル「限度」論と社会的規範論
(3) sozialwisenschaftとしての社会科学
(4) 社会科学的に特殊な言語表現の位置付け方
(5) 認識論的規範論から「国家意志説」への規定性


3 sozialwisenshaftとしての社会科学


 以上、滝村の「社会的規範」論では、発展段階論の方法から「組織的・制度的規範」 を「典型的な社会的規範」として考察対象に据えていることを見てきた。
では、権力論・国家論の次元では、社会的規範と、その規範の担い手としての人間は、 どのように関連しているのか?……、認識論・言語学次元の<規範>一般論と比較し て、どういう違いがあるのか?……。
 この点を具体的にみていくためには、gesellscahtとsozialという、弁証法的な二重の社会把握についてに説明しなければならないだろう。この二重の社会 把握から、三浦のフィールドの認識論・言語学と、滝村のフィールドである国家論・政治学をとらえかせば、両者の学的相違を明瞭に表示することができるのである。

 滝村は、『国家論大綱』の中で、「社会」について次のように述べている。

「……『社会生活』とは、<人々が労働の対象化において現実的に結合し、その活動を相互に交換するこ とによって、精神的にも肉体的にもつくり合っ ている>、社会的生活の生産関係の全体をさしている」(同上81〜2頁)

 これはマルクス・エンゲルスの基本的な社会観であり、三浦つとむにも継承された労働連関論としての社会本質論である。
  労働が生活資料(生産物)に<対象化>され、その生活資料(生産物)を消費することで<対象化>された労働が現実的諸個人に<対象化>され ……という協働的な<媒介的関係性>こそが、<社会>gesellschaftの本質なのだという発想である。
滝村は最初期の頃から、<社会>=gesellscahftという本質論的規定とと、<社会>をsozialとして実体的に捉える二重の視角を提起していた。『増補 革命とコンミューン』(イザラ書房)305〜7頁、『増補 マルクス主義国家論』(三一書房)134〜40頁、『北一輝』(勁草書房)55〜6頁など。とくに、『北一輝』の説明が、簡潔にして明瞭な叙述となっている。

「……gesellscahftというのは、<生活の生産>において結合した人間 集団を、実体的にではなく、なによりも、<労働の対象化>という本質的な関係性に おいて把握したときに成立する、本質的な関係概念、いいかえれば、本質論レベルで のもっとも抽象的な概念である。そこでは、階級的な敵対性や等の特殊歴史的な個別 性や具体性は、すべて捨象されている点に、留意しなければならない」

「……sozialは…(中略)…gesellscahftの<実存>形態一般を 指す、より具体的かつ実体的な概念である」

 この二重性の把握は、いうまでもなく、「ヘーゲル・マルクス流の<本質の実存的 顕現>という弁証法的把握」(『大綱』下巻148頁)の所産である。
『革命とコンミューン』では、本質的なgesellscahftと、より実体的なsozial の弁証法的な二重把握を浮かび上がらせるために、「社会革命」概念を取り上げている。

「……社会革命という場合、マルクス=エンゲルスによって厳密に使用されたように、 Gesellscahftliche Revolutionではなく(もしそうな ら、<社会>それ自体が滅亡してしまう)、あくまでもSoziale Revol utionとして把握されなければならないのである」

 sozialは、現実的諸個人が社会組織・制度的に結び付く具体的な在り方を、 問題にしている。「社会革命」は、実体的具体的な社会的組織・制度としての結び付 きを、根本的に変革するものであるから、Soziale Revolutionと 規定される。
 しかし、<労働の対象化>において諸個人が結合する<本質的な媒介的関係性>は、 いかなるsozialであっても維持されなければならない(諸個人が<労働の対象 化>をピタッと一か月止めたとしたら、早晩諸個人は物質的に消滅し、社会そのもの も無くなってしまう)のであるから、その<本質的な媒介的関係性>の総体=社会g esellschaftを、「社会革命」概念に使用できないのである。
我々が<社会>というとき思い描くのは 生活の生産諸関係総体=社会gesellscahftの<実存>形態sozialとしての現実具体的な姿である。
このヘーゲル・マルクス伝来の社会観では、

a)sozial直接それ自体を、「労働の対象化において肉体的にも精神的にも相互に創り合う関係」総体=社会gesellscahftという本質から切り離し、即物実体的に把握してはならないということになる。しかしこれを逆から言えば、

b)gesellscahftを、現実な歴史的諸社会の具体的な姿態sozial と機械的に切り離し、それ自体として扱っても、歴史的社会・経済・政治・国家の科 学的解明にはならない、ということをも意味している。

 社会科学は、gesellscahftの<実存形態>である歴史的現実的なso zialを学的対象領域として位置付ける学問である。
 とくに権力論・国家論・政治学は、歴史的・現実的な社会的権力という、<直接> 的に組織・制度的に構成された現実具体的事象を、学的対象としている。
<本質的>には、労働の対象化において相互に結び付く<媒介的な関係の総体>(社会gesells caht)が、<現実的・歴史的>には、どのような組織的・制度的結合形態を取るのか? ……その組織・制度はどういう仕組みと構造で成り立っているのか?……という理論的解明が、 社会科学の課題である。
権力論・国家論は、政治的・経済的・文化的なsoziale machtを、全面的かつ現実具体的に取り上げるがゆえに、社会科学はあくまでもsozialwissenschaftなのである。gesel lscahft wisenshaftではなく。
 この社会科学sozialwissenschaftと、人間科学(ないしは精神 科学)との学的相違を、社会存在としての人間(社会そのものとしての人間)把握の 視角と次元の相違のレベルで、考えてみよう。

  人間科学としての言語学・認識論では、動物とは区別される人間一 般の精神世界、その独自の観念的生活・認識活動を、人間の内面世界に即して取り上げている。
動物とは区別される社会的存在としての具体的な人間が、その社会生活の中で創り上げる精神世界、そこで営まれる人間独自の精神的・観念的活動は、いったいどのような<論理構造>にあるのか?……トータルな理論的解明をその学的課題にしている。 もちろん、人間科学で扱う人間は、社会から切り離されたアトミスティックな抽象的 個体などではない。ここから、言語学や心理学なども、社会的存在としての人間を理 論的に取り扱う以上、やはり社会科学でははないか……という発想も生じてこよう。
 この問題を論じるにあたっての最大のポイントは、認識論・言語学が学的に対象と するべき人間が、<認識主体>ないしは<言語表現主体>としての<人間個体>とい うところである。
 医学・生理学的次元で対象とする<生物的個体>ではないが、しかし、歴史的社会的な<諸個人>(社会的組織・制度に直接包摂された<組織的諸個人>)でもない。あくまでも、現実的<社会的人間個体>というところにある。
 これは当然だろう。人間の認識活動そのものは、<人間個体>の頭脳活動なのであ り、<人間個体>の頭脳活動とは、<個人>が<個人主体>として認識・思考し、そ の認識を表現する<主体>的活動なのである。
人間の<個人主体>的頭脳活動は、gesellscaftレベルの本質的<媒介的 関係性>に規定されながら、しかし、個体的人間(個人)の頭脳活動としてしか有り 得ない。人間は<直接>集団的・組織的に認識・思考するものではない(そもそも不 可能である)。
人間主体は、本質的に社会的存在でありながら、人間主体としては、 個人としてしか実存できないという、<社会性>と<個人性>の矛盾において、人間 の認識・思考(主体的実践的活動)を理解しなければならない[補注4]。
 認識論・言語学の次元で学的対象となる人間は、「精神的な交通関係」に置かれ、 自然成長的に「習慣」を身に付けたり、間断なく流されるマスコミ情報のシャワーを 浴び教育の中で知識を蓄え、その時代の支配的思想・イデオロギ−を、無意識のうち に「複製」し、その思想・イデオロギーで自分の頭を染め上げたりする。そういうg esellscahtレベルで「社会的存在」である。
この人間主体が、<直接>的に組織的に構成・包摂されているかどうかは、事柄の本 質を左右しない。<直接>的には、組織的に関連のない個々バラバラの個人でも、 「精神的に相互に創り合う」本質的な<媒介的関係>性において、その内面に「規範」 を対象化していくからである。
 <認識論次元>で「社会的規範」と「人間」を論じる場合、あくまでも、「人間個 体」が<認識主体>として問題になっているから、<認識主体>の内面にスポットを あて、<認識主体>の「規範」の生成−発展が、いかにgesellschaft的 に<媒介>されているか?……、この<媒介的関係性>という限定された視角から、 論理的に追跡することが、その学的メインをなす。
そういう意味で、認識論・言語学は、実体的な<社会的権力>soziale ma chtを直接、真正面から取り扱うものではないが故に、それは社会科学ではありな い。心理学などと同じく、精神科学ないしは人間科学とされるべきなのである。

 では、社会科学としての権力論・国家論・政治学ではどうか?
 社会科学が、soziale machtを現実具体的に学的対象領域として正面 にすえる学問である以上、社会的存在としての人間(社会そのものとしての人間)も また、sozialレベルで正面に据えられる(もちろん、gesellchaft レベルの社会本質論的な媒介的関係性を踏まえながら)。
権力論・国家論では、社会 的存在としての人間個体を、認識主体・表現主体としての現実的<固体>として扱うのではなく、現実的<諸個人(組織的諸個人)>として正面に据える。すなわち、現実具体的な歴史的soziale machtとの不可分の連関において、machtに包摂されmachtを主体的に構成する現実的<諸個人(組織的諸個人)>として、位置付けるのである。
 このことは、『国家論大綱』「総説 権力とはなにか?」が、「第一編1」の小項 目「権力(者)とはなにか?」から実質的にスタートしていること、さらに、次の滝 村の言葉を見れば、はっきりする。

「ここでは(「権力(者)の本質論」では)、社会的権力の、社会的支配力としての 特質を簡潔に明示する必要から、規範としての意志決定権と執行命令権が、いまだ未 分化の専制的支配者[権力者]を、論理的に想定した」(『大綱』上巻73頁)

 ここで滝村が問題にしているのは、「権力現象」に現れた現実的諸個人、すなわち、 「規範の裁可・決定権」を掌握し、「組織構成者」として立ち現れる「専制的支配者 [権力者]」と、その「規範」に従うことで組織的に結集する諸個人(「組織的諸個 人」)である。
「人間」の<社会性>は、本質的な<媒介的関係性>を踏まえた上で、より<直接>的な、より実体的なレベルで問題にされている。「社会的存在」としての人間(社会そのものとしての人間)は、認識論・言語学で措定されるような<認識・思考・表現主体としての個人>ではないのである。【補注2 社会的存在としての人間の<社会性>と<個人性>の矛盾】









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