社会科学と人間科学の方法的差異
   −『国家論大綱』と三浦言語学−


はじめに−本稿の基本的視角
(1) 三浦の規範一般論と滝村の社会的規範論の異同
【補論  <普遍>と<一般>の弁証法的定義】
(2) ヘ−ゲル「限度」論と社会的規範論
(3) sozialwisenschaftとしての社会科学
(4) 社会科学的に特殊な<意志の観念的対象化>論
(5) 認識論的規範論から「国家意志説」への規定性


5 認識論的規範論から「国家意志説」への規定性


 以上、三浦の意志・規範論と滝村の社会的規範論の異同についてみてきた。
 項目2では、[言語学で構成された意志・規範論は、他の学的領域、たとえば、権力論・国家論・ 政治学(としての社会科学)で必要かつ必然化される意志・規範論と、<まったく同じもの>と言えるだろうか?……]と述べ、三浦の意志・規範論が、言語学者による、言語学者のための、言語学者の 意志・規範論であり、滝村の社会的規範論は、政治学者による、政治学者のための、 政治学者の意志・規範論だとした。
 ここまで展開すれば、言語学で構成された意志・規範論を、そっくりそのまま権力論・国家論・ 政治学認識論に流用することはできない……ということがはっきりする。
 この端的な実例は、1950年代に三浦が提起し、津田道夫に継承された「国家意志説」である。
 滝村の理論的出立時のモチーフは、1950年代に提起された三浦つとむらの「権力論をなによりも意志論として展開する立場」(『増補 マルクス主義国家論』12 8頁)を継承発展というところにあった。
 しかし、「マルクス主義権力論の復元と展開」への「補遺」で、「国家意志説」と 自分の国家論の違いを、つぎのように述べている。

「……本稿は、なによりも従来の『国家意志』説の文献本質論レベルでの一面性を克 服是正して、少なくとも一般理論・原理論上のメドをつけた(いいかえれば、まっとうな本質論の提起)歴史的文書であるとともに、私にとっても記念碑的な意義をもっ ている」(同上129〜30頁)

 これは、三浦・津田「国家意志説」と滝村国家論が、そのスタート地点からすでに <質>的に異なるものであることを、表明したものとみることができる。

  三浦「国家意志説」は、マルクス・エンゲルスの「国家=イデオロギー的権力」 論の復元・再構成を、認識論で展開された意志・規範論の応用的具体化というかたち で展開し、一定の成功を収めている。しかし、その「国家意志説」が果たした意義は、 あくまでも、復元された「国家=イデオロギー的権力」を、レーニン・スターリン・毛沢東らに対置し批判するというものであって、現実の歴史的現実的事象と直接取り 組むという、本格的な社会科学的業績ではなかった。
 これは、「国家意志説」の直接の理論的武器である意志・規範論そのものが、現実の歴史的社会的な権力・国家・政 治的事象を直接正面に据え、科学的に「再措定・再発見」されたものではないということでもある。
 しかし、ここで注意しなければならないことが一つある。三浦の場合は、他の「国家=イデオロギー的権力」「国家=幻想の共同体」論者な どと違い、その理論的武器である意志・規範論が、マルクス・エンゲルスの古典から「文献本質論」的に抽出しただけのものと、単純に決め付けられない特殊性を有して いることである。
 三浦の「国家=イデオロギー的権力」論は、自己の言語学的研鑽の中で鍛え上げた意志・規範論に支えられていて、言語学の意志・規範論を<礎石>と して、その上に権力論・国家論を構築しようとしたものと、みることができるのだ。
 しかし、認識論・言語学で構成された<礎石>は、社会科学としての権力論・国家 論の<礎石>とは、サイズも違えば形も違う。
先にも述べたように、認識論・言語学次元で構成された「意志論・規範論」は、人間 の内面世界の過程に即して、意志・規範の生成−発展を考察するものである。精神科学(あるいは人文科学)では、あくまでも、<認識主体・表現主体>としての人間を 正面に据えて学的に解明する以上、これは当然だろう。
しかし、この次元のままで「国家規範」を論じるとなると、<認識主体>としての人 間が、「国家意志を追体験して自分の頭の中に複製する」という視点が、全面に躍り出る。  そうなると、どうしても、諸個人の内面世界に「国家意志が浸透」する過程を、 イデオロギー的・思想的浸透・内面化というレベルで論じる傾向が、強くならざるをえない。
「国家意志が官吏としての個人の意志に複製され、個人の行動を通じて維持 される過程」(『唯物弁証法の成立と歪曲』65頁)という三浦の章句がそれを端的に示している。『認識と言語の理論』で展開した「個別規範」や「特殊規範」の説明とまったく同じレベルで,法規範も説明しようとしているのだ。
 それでも、大衆組織に即した組織ー指導者論ならば、それなりに優れた成果をあげることもできる。国家・国家権力ではなく、大衆組織のような社会的組織の次元なら、 「規範」の問題を、指導者−大衆のそれぞれの存立条件に即して把握し、個々の指導 者、大衆の一人一人の内面で生成−発展する<意志>の在り方に即して、合理的な 「規律」論レベルで規範論を展開できるからである。現に、『大衆組織の理論』『指導者の理論』では、ヘーゲル・マルクス・エンゲルス・レーニン・毛沢東などへの正 確な読解と、現実の中から論理を手繰り寄せる類いまれな才能から、優れた見地を披露している。
しかし、いざ国家権力・国家論となるとそうはいかない。たしかに、「丸山政治学の 論理的性格」などの諸論文では非常に鋭い着想を示しているのだが、「国家意志説」 という形では、結局レーニン国家論を乗り越えることができなかった。この点を明瞭 に表示する箇所をみてみよう。

「国家意志には、支配階級の意志が大きく反映しているから、官吏独自の意志が取りも直さず、支配階級の意志に敵対的であってはならないのである。ここから官吏はそ の出身が問題になり、どんなイデオロギ−をみにつけているかが問題になる」

「支配階級出身の人間で支配階級のイデオロギ−が身に付いた人間が官吏になり、 「国家意志の人格化された存在」になるとき、「『骨の髄まで』支配階級の意志によって侵された人間ができあがる」

「(ブルジョワ出身でブルジョワイデオロギーが染みついた人間に)公的強力を任せ ることができるわけのものではない。こんな人間は追放するしかない。銃剣をつきつ けてたたき出すか、あるいは、ピストルは腰に下げたまま笑顔で辞表をわたして署名するよう話しかけるか、それはまた別の話である」

「革命は、これとはまったく正反対の階級の出身で階級イデオロギ−が身に付いている人間が要求される」(『唯物弁証法の成立と歪曲』64〜5頁)

「官吏」=「国家意志の人格化された存在」という把握は、「資本家」=「資本の人格化した存在」というマルクス『資本論』の発想を踏まえたものだが、この言い方自 体は間違ってはいない。問題なのは、「官吏」=「国家意志の人格化された存在」という言い方に込められた、三浦の視角である。この視角を、まず、方法論的レベルからみてみよう。
三浦は、「官吏」を、「国家意志」を貫く「イデオロギ−」を受容し、「骨の髄まで」 支配階級の「意志」に「侵された」人間存在というレベルで位置付けている。「官吏」が法律の教科書を学び、一般諸法・規則・服務規程などを拳拳服膺し、頭の中にたた き込むことを、あたかも、思想的作品を読んだ読者が、その作品の背後にある作者の 認識を「観念的に追体験」し、ついには作者の思想・イデオロギーが浸透する……と いう、規範一般のイデオロギー的受容レベルで考えてしまっている。
 精神科学レベルの意志・規範論を、そのまま社会科学レベルにスライドさせるとい うのは、こういうことなのである。
社会科学としての国家論・政治学では、その学的対象は<認識主体>(としての人間 個体)ではない。soziale machtに包摂され、soziale machtを主体的に構成する現実的<諸個人>である。 あくまでも、「個人」ではなく 「諸個人」が問題なのだ。  したがって、その現実的<諸個人>が、その内面世界において、「骨の髄まで」支配階級の「意志」に「侵され」ているか否か?……という ことを、<直接>問題にしているわけではないのである。
ところが三浦は、<認識主体>としての人間の内面世界に即して、意志・規範の生成−発展を考察するという精 神科学の発想で、個別意志→特殊意志→普遍意志(全体意志)=国家意志へと拡大し、法規範を扱う。
 しかしそうなると、個人主体の内面的な世界で、法規範が孕む観念・ 思想・イデオロギー(支配階級の支配的思想観念・イデオロギー)が「頭の中」に浸透していく過程にスポットを当てざるをえなくなる。 三浦は、「国家=イデオロギー的権力」論を、こういう<思想観念・イデオロギー>論レベルで位置付け、マルクス主義の国家=暴力機構論の枠組みに押し込み、その 「一面性」を補正することで、マルクス主義的階級国家論を本質論として堅持してい る。

「国家意志が単にイデオロギ−として君臨するだけでなく、物質的な機関すなわち国 家強力を行使して被支配階級を抑圧する」(同上32頁)

 イデオロギ−とは、「観 念的に疎外され、客観的に自立している意志」であり、この「国家意志」を貫く支配 階級の思想・イデオロギーを、被支配階級に「注ぎ込む」のが国家機関であるとする。
そして、その国家意志=支配階級の思想・イデオロギーに従わない被支配階級を抑圧 するために、「公的強力を任せられている国家機関」(警察・軍隊)が必然化されることにもなる。 これが、国家=暴力機構論を国家=イデオロギー的権力論で補正した、三浦の国家=階級権力論である。
従来のレーニン流国家=暴力機構論者との違いは、国家権力を担 う「官吏」が、「支配階級の意志」=「国家意志」に従い、「公的強力」を行使するとしている、だから、国家権力=階級権力が人民に首尾良く国家意志を押しつけるイ デオロギー的側面が重要……と、主張していることである。
。 だが、「支配階級の意志」=「国家意志」ではない。そういうマルクス主義的本 質把握を絶対不動の前提にしている限り、「支配階級の意志」に還元できない「国家意志」の形成ー支配過程の理論体系的展開は、不可能となる。結局、三浦の「イデオ ロギ−的権力」論も、「国家意志」の形成ー支配を、人民一人一人の内面に支配イデオロギーが浸透する過程として想定しているにすぎないのである。

つぎに、三浦の「国家意志説」と国家=階級権力論の理論的内容について見てみよう。  三浦の「国家意志説」が、国家=階級権力論を本質論としているのは、その「第三権 力論」の取り扱い方に端的に現れている。国家は、イデオロギー的な支配階級の権力だから、他のマルクス主義者と同様に、エンゲルスの「第三権力論」に言及しても (『マルクス主義の復原』『マルクス主義と情報化社会』三一書房)、「第三権力」の「第三」を、赤裸の階級権力を粉飾する単なるイデオロギー的見せかけ・公的フィ クションというレベルでしか位置付けてはいない。
 しかし、「第三権力」を単なる見かけ上の欺瞞的な“第三”権力としか考えられな いと、その国家論は、国家=国家権力という<狭義の国家>観の枠組みを超えることができなくなる。 三浦の「国家意志説」には、第三権力により法的に総括された<社会そのもの>=国 家という「広義の国家」的発想がない。
 また、「狭義の国家」の枠組みにとどまっている限り、対外的諸関係の直中に置か れた<社会>の<外的国家構成>(初期滝村的にいえば「共同体ー即ー国家」)という発想もでてこない。
  この<社会>の<外的国家構成>発想の脱落は、三浦の意志・規範論が社会的権力 論を理論的に構成しえていないことに、根本的に規定されている。
 三浦の権力論には、社会的権力の<内部的支配>と<外部的支配>の二重性の把握がない。これは当然だろう。三浦の意志・規範一般論は、そもそも言語学のために構 成されたものであるから、<社会的規範>としての発展段階論的方法から、「組織的規範」をもっとも発展した(規範としての内的諸契機を開花顕現している)社会的規 範と位置付ける必要など、言語学的規範論にありはしない。
また、規範の「社会性」という場合も、言語規範が孕むgesellshaftレベ ルの本質的な<媒介的関係性>こそが問題なのであって、規範が機軸となって諸個人を直接組織的に編成するsozialレベルの社会的権力組織体の現実具体的諸形態 を、直接学的対象にしているわけではない。そのため、三浦の意志・規範論には、現実の「組織的規範」に即した意志の規制と拘束力の在り方への理論的解明はない。 したがってまた、「組織的規範」としての意志の規制と拘束力が、組織の<内部>に向かう場合と<外部>に押し出される場合とを、歴史的・現実的なsoziale  machtに即して把握し、<内部的支配力>と<外部的支配力>とを論理的に区別 する発想が、まったくない。なくて当たり前である。そもそも言語学的規範論には必 要ないのだから。
 しかし、社会科学的レベルの国家意志・法規範論で、<外部的支配力>という発想 がないと、そもそも国家論の体系的展開は不可能となる。

 ?国家権力は、社会全体に(社会的諸組織・諸個人すべてに)向かって<外部的支 配力>を完全に貫徹し<社会全体を国家として組織化>する、特殊な政治権力である。

 ?国家権力が、社会全体を<国家>という一大政治組織へと編成するということは、その<外部的支配力>がそのまま<内部的支配力>へと転化していることを意味する。

 ?そして、その<内部的支配>を完成させた国家=一大政治組織体が、それ自体巨大なmachtとして国際政治世界に躍り出て、<外的国家意志>を他国に押しつけ るために、絶えず相互的な軋轢・対立・相剋を繰り返している。

 三浦の「国家意志説」には、こういう国家の<内部的支配力>と<外部的支配力> の論理的把握がなく、そのため、「広義の国家」また「外的国家構成」という国家本質論に関わる基礎概念が確立できない。
三浦の国家論が、どんなに国家のイデオロギー 的側面を重視しようと、国家の本質=支配階級の権力というマルクス主義的階級国家論の枠組み(狭義の国家論)を超えるものではない以上、これは必然だったのである。









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