? 社会科学と人間科学の方法的差異
   −『国家論大綱』と三浦言語学−



はじめに−本稿の基本的視角
(1) 三浦の規範一般論と滝村の社会的規範論の異同
【 補論 <普遍>と<一般>の弁証法的定義 】
(2) ヘ−ゲル「限度」論と社会的規範論
(3) sozialwisenschaftとしての社会科学
(4) 社会科学的に特殊な言語表現の位置付け方
(5) 認識論的規範論から「国家意志説」への規定性





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 「普遍」も「一般」も、対象の「本質性」をそれぞれ別の角度から捉えたものであ るが、この「本質性」を、常識的に「共通性」と見做し、諸事象の「共通性」に着目 して、一般性=共通性=普遍性とイコールで位置付けることもできる。

 例。三権分立は、すべての民主主義諸国家にあまねく共通する制度であるという意 味で、“三権分立は、民主主義国家にとって一般的=普遍的なものである。
 しかし、「一般」と「普遍」は、対象の「本質」をそれぞれ違う角度から捉えたも のであるから、その角度の違いに応じて、論理的に異なるものと規定される。
 すなわち、対象の「本質」を、個別・特殊との<相対的区別>において捉えれば「一般」、 個別・特殊との<連関>において捉えれば「普遍」となる。

 この「一般」と「普遍」の相違は、たとえば、「特殊理論」と区別される「一般理 論」とは表現しても「普遍理論」とは言わない、「権力の一般理論」とは言っても 「権力の普遍理論」とは表現しないのはなぜか?……じっくり考えると分かるだろう。
「普遍」は、「本質」を、個別・特殊との<連関>すなわち個別−特殊−普遍=本質 という媒介止揚関係において捉えた規定である。
個別・特殊は普遍を孕むという意味で、「本質」は個別・特殊にあまねく内在する。
しかしこれを逆に言えば、「本質」は個別・特殊において以て自らの「本質」を顕現する……。
そういうレベルで、個別・特殊と本質の<連関>を考えるとき、「本質」は「普遍」なのである。
そもそも、個別・特殊という規定自体が弁証法的な規定であって、普遍との<連関>を前提にし ている。
 非弁証法的な発想では、個別・特殊は単なる非本質的な特異性とされ、機械 的に切り捨てられる。

 これに対して「一般」は、「本質」を、個別・特殊との<連関>においてではなく、 個別・特殊との論理的な<相対的区別>において、それ自体として純粋に、個別・特 殊と大きく対比・対立させたかたちで(個別・特殊/一般)、捉えたものである。
だからこそ、「特殊理論」と対比的に区別される「一般理論」という表現も成り立つ。
 一般理論は、対象の本質がもっとも「典型」的に、純粋に顕在化した理論的モデル という意味で、「一般」理論である。
その「一般」理論と区別される「特殊」理論は、 対象の本質を内在させながらも、「典型」たらざる「特殊」形態として位置付けられ る。

 具体例。議会制民主主義は、近代以降の国民国家においてもっとも一般的=典型的 な政治形態である。しかし、近代以降の国民国家がすべて議会制民主主義形態を取る わけではないから(ファシズム、軍事専制国家)、議会制民主主義は近代国家の一般 的=典型的形態とはいえても、「普遍的」形態とはいはない。
したがってまた、国家的事象を一般的=典型的レベルで扱う「一般国家論」(『国家 論大綱』「本論 国家とはなにか[一般国家論]」)は、「特殊」的事象を扱う「特 殊国家論」(『国家論大綱』「補論 特殊的国家論」)との大きな対比において「一 般」国家論とされるが、「普遍」国家論とは言われない(『大綱』の構成が、「総説  権力とはなにか[権力論]」→「本論 一般的国家論」/「補論 特殊的国家論」と なっていることに注意!)。

 「一般」「普遍」をどう把握するかは、弁証法的な「本質」観と非弁証法なそれと の違いを考える上で、重要である。
 弁証法的レベルでは、「一般」は、「本質」を 個別・特殊と大きく対比・対立させたかたちで(個別・特殊/一般)捉えるものだが、 その<区別>はあくまで<相対的>なものである。
 しかし、この<区別>を絶対的に固定化し、個別特殊を、単なる特異性(非本質性)として切り捨て、個別−特殊−普 遍の論理的連関と機械的に切り離して「一般」を捉える発想が、いわゆる非弁証法的 な「形而上学」的発想ということになる。
「一般」と「普遍」は、ともに事象の「本質」を把えるものであり、しかしその把握 の視角が異なっているというのは、以上のような意味である。




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