探究 三浦つとむ・滝村隆一に学ぶ

Ⅰ 社会科学と人間科学の方法的差異   −『国家論大綱』と三浦言語学−


Ⅱ <本質=関係>把握としての弁証法ー社会科学と関係概念ー


Ⅲ  初期滝村国家論と『国家論大綱』   −「政治」規定の変化に即しての考察−


Ⅳ 科学者・三浦と哲学者・三浦について

Ⅴ 社会科学の学びと批判精神 −日本的伝統としての学的派閥と党派的信心−


 



Ⅱ <本質=関係>把握としての弁証法

1  

 本稿では、三浦と滝村が一貫して強調してきた<本質=関係>概念について論じて いく。

 <本質=関係>という本質観はヘーゲルのものである。これは極めて難解な論理で、 なかなか理解しがたいのだが、『論理学』を、マルクスの『資本論』、三浦つとむの 言語過程説、滝村国家論などの業績と比較検討していけば、<本質=関係>とはどう いうものか?……<知識レベル>でかなり理解は深まると思う。また、武谷三男の技 術論も、理解のために資するところがあるだろう。

 「関係概念で媒介構造を把握する」(『認識と芸術の理論』勁草書房303頁)と 述べたのは三浦だが、三浦の「過程的構造」という基本視角から、『資本論』や『国 家論大綱』を解読していくと、<本質=関係>概念の二重性(この点後述)を、著述 形態で論理体系的に再現しているのが、分かるのである。

 滝村は初期の頃から、弁証法という対象把握の方法が、<対象的事象の本質を、関 係概念のレベルで把握する>ものであるとしてきた。『国家論大綱』でも、これと同 一の見地をより緻密に規定し直している。

「……われわれが当該対象を弁証法的に把握するためには、同一事象・同一実体に関 わる様々な概念に機械的に対応させて、実体的に区別される対象を想定したりするの ではなく、かかる諸側面と関連を、原理的な区別と連関において、まさに統一的にと らえなければならないのである」(『マルクス主義国家論』三一書房165頁)

  「……学的・理論的把握の精髄は、<対象的事象のトータルな内的連関と仕組み (構造)>の、把握と解明にある」(上巻331頁)

「……事物の本質は、現象それ自体ではなく、その背後に内在する一般性、内在的な 論理的連関を、把握することによって可能となる……」(同上332頁)

 引用文の中で、「関係」概念とともに「実体」「構造」という概念が使われている。 <本質=関係>概念を<構造>概念との区別と関連において理解することは、ヘーゲ ル・マルクスの学的弁証法を知るための、最重要ポイントである。

 <対象的事象の本質を、関係概念のレベルで把握する弁証法的方法>などというと、 三浦が『弁証法とはどういう科学か』で述べた、弁証法=「対立物の統一に関する学 問」という定義とどう関連しているのか?……訝しい思いをする人が、いるかもしれ ない。

 <本質=関係>把握とは、「対立の統一」を別の視角と次元から捉え直したもので ある。また、三浦のいう「過程的構造」も、<本質=関係>概念を異なる次元で位置 づけなおしたものである。  更に、事象の本質的解明を、<本質→構造→現象>という事象に内在する客観的論 理の「内的運動」に即して捉え返せば、<本質=関係>概念は、ヘーゲル的な<運動 >概念に組みかえることができる。ヘーゲル曰く、 「本質そのものは……否定態であり、他在と規定態とが自己を揚棄する運動である」 (『大論理学』以文社 寺沢恒信訳17頁)

  以下では、<本質=関係>概念が、ヘーゲル・マルクスの学的弁証法に占める枢 要な位置、それが「矛盾」「過程的構造」「内的運動」という弁証法的諸概念とどう 関連しているか?……みていくことにしたい。

 2

   弁証法は、事象を「対立の統一」において把握する方法である。  この「対立の統一」と、ヘーゲル・マルクスの<本質=関係>概念を考えるにあ たって、三浦がよく使う「あれもこれも」の厳密な意味を確定すれば、話は分かり やすくなるだろう。

  事象の論理的把握は、形而上学的な「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」 でなければならないと言われる。しかし、この「弁証法」VS「形而上学」の対立 図式に関しては、これまで、程度の低い通俗解釈がなされることがままあった(こ れに関しては三浦の責任重大である)。  たとえば、“ソ連のハンガリ-武力介入はそれ自体は「悪」だが、アメリカ帝国 主義の浸透を防ぎ社会主義共同体を守ったという点では「善」でもあり、善か悪か、 あれかこれかと形而上学的(?)に考えるのではなく、あれもこれもと弁証法的(? ?)に考えなければならない”とか。  だが、「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」というのは、AとBを並列的 に把握し、AもBも両方どっちも押さえましょう……というような現象レベルの話 ではない。歴史には光と影があるとか、物事は善と悪の両側面を合わせ持つとか、 世の中には裏もあれば表もあるとかいう、現象的ないしは経験法則的レベルとは、 そもそも論理的次元が違うのだ。

 事象の本質的把握とは、対象をその<直接>的姿態においてではなく、<媒介> 的に把握することであり、<媒介>的な把握とは、直接性と媒介性の統一すなわち <矛盾>において把握することである。  ヘーゲル曰く、

「哲学の課題あるいは目的」は、「事物の本質を認識する」ことであり、「事物の 本質を認識する」ためには、「事物はその直接態のままに放置されるべきではなく、 他のものに媒介あるいは根拠づけられたものとして示されなければならない」( 『小論理学』112節補遺 岩波文庫上巻11頁)。

 現実的事象は、その「直接態」としては、複雑多様な個別具体的事象A、B、C、 D、E……として現れる。これらA、B、C、D、E……を「その直接態のまま」 のレベルで論理的に抽象し、機械的にバラバラに切り離して把握するのが、即物経 験論的な現象的機能論とか即物実体論といわれるものである。   しかしヘーゲル的な対象の<本質>的把握は、これとはまったく違う。

 A、B、C、D、E、F……という個別具体的な事象を、即物経験論的に直接そ れ自体孤立的固定的に把握(いわゆる「形而上学的」把握)するのではなく、その 背後に控える事象の内在的な本質的性格との<関係>において、それぞれの論理的 レベルを位置づけ、重層的・立体的な<構造>において把握していくこと。  個別特殊的な諸事象を、事象の背後の直接眼には見えない「内的連関」において トータルに把握し、統一的な体系を構成する必然的契機<A-B-C-D-E-F ……>として捉え直していく。別の言い方をすれば<本質> との<関係>において、 <現象・機能>的・<構造・実体>的諸契機それぞれの論理的位相を、確定してい くことなのである。

 これが、学的弁証法レベルでの「あれもこれも」の厳密な意味なのであって、ヘー ゲルのいう総体性Totalitat-契機Momentという重層的・立体的な <構造>を問題にしている。A、B、C、D、E、F……を「あれかこれか」では なく「あれもこれも」と全体的に網羅的に取り上げましょう……みたいなレベルの 話ではないのである。

「あれもこれも」の厳密に弁証法的な意味を追求していけば、このようにヘーゲル ・マルクス流の対象の<本質=関係>把握に帰着する。

 この<関係>概念を別の 角度から捉え直せば、<矛盾>概念へと読み替えられるだろう。「あれもこれも」 とは、A、B、C、D、E……の個別的な直接的姿態(直接性)を、普遍的な本質 的関係性(媒介性)との統一矛盾)において把握することなのだから。滝村的表現 を使えば、現実的事象を、媒介性を内に孕む直接性(事象の内在的本質性に<媒介 >された直接性)として、弁証法的に(対立の統一において)把握するということ である。【補注1】

 そして、この<矛盾>概念を、対象に客観的に内在する<矛盾>の必然的顕現 (本質が以て自らの本質を開花発展させる)として、<本質→構造→現象>という 「内的運動」に即して捉え返せば、ヘーゲル的な<運動>概念が成立する。 更に、 この<内的運動>の全体を、認識主体の側が理論的に著述形態で大きく「再現」し ていけば、学的弁証法の壮大な<理論体系>(本質論の構造論的具体化)が構成さ れる。

かくて、ヘーゲル・マルクスの学的弁証法は、

(1)認識主体が、自らの<抽象=止揚力>を唯一無比の武器として(社会科学で は「顕微鏡も試薬も役に立たない。抽象力がこれに取って代わらなければならない」 『資本論』「第二版あとがき」)、対象の内在的な論理的仕組みを分析(現象→構 造→本質)していく<論理解析法>と、

(2)その分析を前提とする<理論体系構成法>(本質論の構造論的具体化)とい う方法的二重性において成立する。

 この<抽象=止揚>というヘーゲル的独創を抜きにして学的体系を構成すると、 即物経験論的実証的な「分析法」を前提にする「総合法」にしかならない。事象の 現象的姿態を論理的に<抽象=止揚>し、対象の内在的<本質>を<普遍>的な< 関係>として重層的立体的に把握するという論理的視角こそが、英米経験論やフラ ンス構造主義などと厳密に区別される、ヘーゲル・マルクスの弁証法的発想の核心 を成している。

  <本質=関係>把握としての弁証法というのは、以上のような意味である。

  しかし、こう言うだけでは、あまりに抽象的にすぎるであろう。そこで、<本 質=関係>の弁証法的論理とはどういうものか?……、滝村理論の白眉というべき <三権分立>論に即して、具体的にみていくことにする。<本質=関係>概念の難 解さは、三権分立論の歴史的流れの中で滝村三権論を位置付けてみれば、ある程度 まで解きほぐすことができるだろう。というのも、三権分立の本質論的把握は、なぜ四権でも五権でもなく、三権は三大機関に分立 するのか?……を、その必然性(三権でなければならない・三権以外ありえないと いう論理的必然性)において把握するものでなければならない。そして、この歴史的=論理的必然性は、即物実体論的な三大機関論と現象機能論的な権力作用 立論をトータルに批判した滝村の<本質=関係>論的三権論において正確に捉えられているからである。  

[補注1]  

 弁証法入門書・啓蒙書では、直接性と媒介性の統一(矛盾)を分かりやすく説 明するため、現象レベルの比喩に頼り、どうしても弁証法論理の通俗化に陥りやす い。

 たとえば、AさんがCに直接話すのではなく、Bさんに間に立ってもらい、Bさ んからCさんに伝えてもらう。このAとCの関係は媒介関係だが、A→B、B→C は直接繋がっており、媒介関係はその内に直接性を含んでいる……というような。  こういう説明は、AさんBさんCさんたちの現象的連関を直接取り上げているだ けで、弁証法的な対象の本質把握レベルのものではない。三浦の「弁証法」的啓蒙 書には、こういう記述がみられるので、特に初学者は注意が必要である。

 三浦言語学は、ヘーゲル・マルクスの<本質=関係>という本質観を継承し、 「関係概念で媒介構造を把握する」弁証法的実力を発揮していて、三浦の学的水準 を知るためには、やはり主著の『認識と言語の理論』『言語学と記号学』などを参 照しなければならない。また、『日本語はどういう言語か』『ことばとこころ』は、 「啓蒙的スタイルを取りながら内容は極めて高度(吉本隆明)という、奇跡のよう な啓蒙書である。 しかし、これに比べると、弁証法はどういう科学か』その他の啓蒙的著述は、 その 見かけの易しさとは裏腹に、かなり厄介な書物である。

  叙述の至る所で、マルクス主義哲学者・三浦と、科学者・三浦の二つの貌が分か ちがたく結びつき、相互に規定し合っていて、読む者は、マルクス主義哲学者・三 浦の哲学的限界と、科学者・三浦の真の実力をふわけしながら読み進んでいかねば ならない。 だが、初学者に、そんな高度な論理的切開など、そもそもできるわけがない。  初学者向きに書かれているがゆえに、三浦の弁証法的実力を見誤り、「三大法則」 に単純に還元できない弁証法的方法の精髄を捉え難い……。そういう意味で、『弁 証法はどういう科学か』その他の啓蒙的著述は、弁証法入門書としてみれば、初学 者向けであるが故に初学者向きではないのである(この点は別稿「三浦『哲学』に ついて」で取り上げる)。

  3

  

モンテスキュー以降、三権分立の問題は、まず、実体的な立法(議会)・執行 (政府)・司法(裁判)機関の分立と相互牽制的均衡という、三大機関論として提 起された。

 しかし、議会・政府・裁判所の具体的な在り方を見れば、立法権・執行権・司法 権の三権は、三大機関とピタッと対応しているわけではなく、三権と三大機関にズ レが生じている。 たとえば、議会が弾劾裁判権というかたちで裁判権をもっていたり、政府が実質的 な「立法権」を(政府立法というかたちで)握っていたり、裁判所が判例というか たちで実質的な「法定立」を担っていたり。 そこで、三権分立の問題を、実体的な三大機関分立論として理解するのではなく、 立法権・執行権・司法権の三大権力作用・機能の分立として理解するという、機能 論的な発想が生まれてきた。

 しかし、三権分立を単に権力作用・機能の分立の問題に還元することは、結局、 三権分立論の実質的否定に至らざるをえない。  国家的諸機関の担うあらゆる国家的諸活動は、直接それ自体みれば、すべて国家 機能・作用である。国家的諸機関は、統治、行政諸機関、また政治的・経済的・文 化的諸機関、さらに中央-地方的諸機関へと多様に分立しており、その分立に応じ て多種多用な国家機能・作用が分化している。

 したがって、権力分立の問題を作用・機能分立の問題に還元してしまうと、それ ら多種多様な国家作用・機能の分立から、とくに三大機能を取り上げる必然性がな くなる。なぜ、権力分立論を、とくに<三権分立>論としなければならないのか? ……なぜ三権なのか?……という問題意識自体が、消失する。 かくて、三大機能論は、三権に限定されない「多様な権力分立論」として構成され、 モンテスキュー以来の三権分立論は、もはや現代国家には通用しない(多様な権力 機能が高度に分化発展した現代国家の現実を、説明できない)「古典的定義」とい う風に、神棚に押し上げられてしまった。

 以上のような権力分立への実体論的、機能論的発想に対して、滝村は、権力一般 論に<媒介>された三権分立論を提出した。

「<三権分立制の核心は三大機関の分立にあって三大機関の分立に非ず>。三大機 関分立の背後には、規範それ自体の内的な運動、つまり規範としての意志の形成- 支配過程が、大きく控えている」(同上587頁)。

「<なにゆえ三権でなければならないのか>という意味での、本質的把握は、理論 的には、意志論としての規範論を、前提としてのみ可能となる」(『大綱』上巻5 88頁)。

 <三権分立>を直接それ自体として見れば、三大機関の実体的な分割・分立、そ の三大機関に担われた国家機能・作用として現れている。 <三権分立>の本質的把握とは、この実体的な三大機関、機能的な三大作用という 直接的姿態の背後に、「規範それ自体の内的な運動、つまり規範としての意志の形 成-支配過程」を、透かし見ることである。  立法権・執行権・司法権の実体的・機能的分化分立は、<権力本質論>レベルで いう<国家意志(法)の形成-支配関係>に、大きく<媒介>的に規定されている。

(1)立法は<国家意志(法)の形成>に対応し、

(2)執行は<国家意志(法)の支配>に対応する。

(3)司法は、個別具体的な違法行為への法的審査・監察・処罰というかたちで、 国家的支配(法の支配)を、個別具体的レベルで、最終的に貫徹・確定する。

 この法に基づく審査・観察権は、国家的支配の全域に隅々まで及ぶ、すなわち原 理的に貫徹するものである。法を作る→法に基づき執行する、この立法・執行の過 程自体が、法に則って正しく行われているか否か?……も、審査・監察・処罰の対 象になる。

 法の支配が国家・国家権力の全域に隅々まで及ぶ(原理的に貫徹する)というこ とは、いかなる権力者もまた<法の支配>に服し、違法行為があれば処罰されなけ ればならない、ということでもある。<法の支配>を国家的支配の全領域で、個別 具体的レベルで最終的に確定するところに、<司法権>の原理的位置(単なる裁判 権とは厳密に区別される)がある。

 このように、権力分立は、権力の「意志(国家法)の形成-支配」に大きく<媒 介>されていている。そうであるがゆえに、四権でも五権でもなく、三権の論理的 区別以外ありえない。国家意志(法)の形成(立法)・国家的意志(法)に基づく 支配(執行)、国家意志(法)の支配の最終的確定・貫徹(司法)という構成は、 <権力の本質>から言って、論理的必然的な分化・発展ということになる[補注7] 。  この「三権分立制の核心は三大機関の分立にあって三大機関の分立に非ず」とい う滝村の矛盾論的三権論の中に、ヘーゲル・マルクスの「対立の統一」(矛盾)の 弁証法的論理を、明瞭に透かし見ることができる。  三権分立論は、三大機関の分立を正面に据えながら、しかし「その直接態のまま に放置」することなく、「他のものに媒介あるいは根拠づけられたものとして」把 握するものでなければならない。三大機関の分立を権力一般論(規範の形成-支配 関係)に<媒介>されたものとして把握するということは、「三大機関の分立」を、 その直接的姿態においてではなく、「媒介的規定を内に孕む<直接性>」(『マル クス主義国家論』213頁)として、厳密に弁証法的レベルで、<本質>的に把握 するということなのである。

 以上、三権分立論が権力一般論に<媒介>されるという理論的把握をみた。

 権力・国家論は、権力の抽象的一般的な本質規定のレベルにとどまることなく、 その本質規定を前提に、より高次な、より具体的な段階へと発展・展開しなければ ならない。権力一般論は、三権分立論へと<構造>的に具体化されなければらない。 この<構造>的展開を、

a)権力一般論→三権分立論の流れから捉えれば、権力一般論で提出された抽象的 一般的本質規定が、以て自らの本質を<顕現>する論理的行程であり、三権分立論 の構成は、権力本質論の<実存的顕現>である。逆に、

b)三権分立論のレベルから権力一般論を顧みれば、権力論で展開された本質規定 が、三権分立論という、より高次なレベルへと<止揚>されている。総体として見 れば、権力一般論→三権分立論という理論的連関は、<媒介=止揚関係>というこ とになる。 [補注2]  

この三権的分化が構造的に展開するのは、近代以降の議会制民主主義国家におい てである。近代以前の専制国家には見られない。 専制国家にも立法府・執行府・裁判機関の分化あるが、その分化は、デスポット (専制支配者)への権力集中を前提としており、権力を一身に集中するデスポット の意志を代行する分業的に分担にすぎない。立法府も執行府も裁判所もデスポット に直属する諮問機関の分立(三権分立ではなく三権分属)である。 これは、専制 国家に三権が存在しないのではなく、三権分属という未熟な形態でしか存在しない、 ということである。 とくに、専制国家には裁判権はあっても<司法権>はない。第一に、法に基づく審 査・観察権が、国家的支配の全域に及ばない。したがって当然、デスポットはその 裁判権には服さない第二に、デスポットの恣意的意志で、たえず判決が覆される (判決の確定力の弱さ)ため、専制国家の裁判権は、<法の支配>の個別具体的レ ベルでの最終的確定という<本質>的性格を、いまだ全面的に開花発展させていな い、ということになる。

 4

    以上、三権分立論に即して、弁証法的な理論構成の<媒介=止揚関係>をみてきた。

  学的な理論体系というものを、本質の自己発展的顕現(媒介=止揚関係の展開)と して捉えるところが、ヘーゲル・マルクスの学的弁証法の核心であるが、この論理 が極めて難解であるのは、<本質=関係>概念が二重化しているところにある。 この二重性を理解するため、まず、ヘーゲルの章句を引用してみることにしたい。

「日常生活でWesenという言葉が 用いられる場合、それはしばしば総括とか総 体とかいう意味しか持っていない。例えば、人々は、Zeitungswesen (ジャーナリズム)とか、Postwesen(郵便制度)とか、Steuerw esen(租税制度)、等々と言う。そしてそれらの意味するところは大体、これ らの事柄がその直接態において個別的にではなく、複合体として、そしてさらにま たさまざまな関係において理解されねばならないということである。Wesenと いう言葉のこうした用い方には、大体においてではあるが、本節に本質として示さ れたものが含まれている」(『小論理学』112節補遺 岩波文庫下巻10頁)

 ここでヘーゲルは、事象を「その直接態において個別的にではなく、複合体」と して、「さまざまな関係」として把握することが、<本質>的把握なのだと言って いる。

 つぎに、ヘーゲルの弟子マルクスのあまりにも有名な「フォイエルバッハ・テーゼ (六)」を見てみよう。

「人間の本質とは、個々の個人の内部に宿る抽象体なのではない。それは、その現 実の在り方においては、社会的諸関係の総体なのである」(『新編輯版 ドイツ・ イデオロギー』岩波文庫 廣松渉編訳 237頁)

  この章句も、ヘーゲル的な<本質=関係>の論理から捉えられなければならない。 ヘーゲルとマルクスにとって、「本質」というものは、事物の内部に実在する、な にか抽象的実体的なモノではない。したがって、対象の本質規定を抽出する論理的 作業は、キャベツの皮を剥いていき最後の最後にかちッとした芯を取り出す……よ うなものではない。「フォイエルバッハ・テーゼ(六)」を、比喩的にイメージす ると、ラッキョウの皮を一枚一枚剥いていくと最後はなにも残らない、“ラッキョ ウ自体”のような本質的抽象体があるのではない。ラッキョウの本質は、ラッキョ ウの皮の総体でしかない……、ということになるだろう。

  こういう本質観に立脚すれば、 もっとも抽象的一般的な<本質>規定もまた、<本質>論的に把握されることに なる。すなわち、抽象的な本質規定それ自体が<関係>概念として構成されざるを えない。

 滝村の権力一般論を例に上げると、権力の<本質>規定は、権力をその直接的な 姿態において、「権力=支配力」をなにか即物実体的なモノとして、捉えるもので はない。<権力>を、<規範を軸とする意志の支配−服従関係>として、<関係> 概念レベルで捉えている。

  そして、この<意志の支配−服従関係>を、規範それ自体の「内的運動」に即して捉え返せ ば、規範の形成(意志の対象化)−支配(諸個人の服従)という、対象化された意 志(規範)と諸個人の生きた意志との<矛盾>として把握することになる。  抽象的一般的な本質的規定そのものが<関係>概念として構成されているという のは、このような意味である。

 この対象の本質論的解明 とその理論構成が、重層的・立体的な<媒介=止揚関係 >の体系的展開を必然化する、というレベルで、<本質>は<関係>である。  体系的な理論というものは、抽象的一般的な<本質=関係>概念を、体系展開の ための<始元=論理的端緒>とする。 この<始元=論理的端緒>としての<本質=関係>概念は、<以て自らの本質を顕 現していく>かのような、概念の自己発展的な上向的具体化の行程を取る。抽象的 な一般的規定(本質=関係概念)がより高いレベルで「理論的に再現」され、その 一定の段階それ自体もまた、更にもう一段高いレベルへと<止揚>され……という、 重層的・立体的な<媒介=止揚関係>の体系的展開となる。

  ということは、最も抽象的な本質規定それ自体が><関係>概念であるばかりか、そ の<関係>規定→より実体的・機能的諸概念A→B→C→D→E……の展開は、体 系的な諸契機の有機的統一的・相互媒介的な<関係>概念の複合体ということにも なり、<関係>は二重のレベルで構成されることになるのである。

   以上の議論を踏まえて、学的弁証法とはなにか?……自分なりの理解を提示し、 併せて、<本質=関係>概念と<内的運動>概念の関係についても述べてみたい。

   社会的事象に固有の内部構造は、たとえば電子顕微鏡で原子の構造を直接<見 る>ようなわけにはいかない。社会科学は、実験的実証や厳密な数学的論証で真理 を確定しがたい特殊な性格をもっている。 社会的歴史的事象に内在する真理性を論理的に把握し、科学的真理として確定し開 示するための武器は、<抽象力>しかない。マルクス曰く、

社会科学においては、 「顕微鏡も試薬も訳に立たない。抽象力がそれに取ってかわらなければならない」 (『資本論』第一巻「第二版あとがき」)。

 そしてマルクスのいう「抽象力」を<止揚>と捉え返せば、弁証法の方法的核心 を言い当てたことになる。

  弁証法という方法は、まず、事象の直接的姿態の背後に控える、直接眼には 見えない(経験実証的に不可視の)内的な論理構造へと分析を進め、事象を事象た らしめる抽象的一般的本質規定を抽出していく(マルクスのいう下向法)。 この下向法的分析を内容的にみると、研究主体が現実的事象を正面に据えて論理的 分析力(抽象力)を働かせ、対象的事象に客観的に内在する   

       現象−構造−本質

         機能−実体−関係  

        個別−特殊−普遍

 という論理的連関に即して、現象→構造→本質へと抽象=止揚していく。[補注 3]

    そして、 論理的解析により抽出された抽象的一般的本質規定を、ヘーゲル的にいえば< 始元>(論理的端緒)として据え、本質規定を構造論的に具体化(本質が、自らの 本質に見合った構造的仕組みと現象的諸相を理論的に再現)していく。 この具体的展開は、<本質が以て自らの本質を顕現・開花・発展させていく>かの ような、概念の自己運動・顕現行程として体系的に叙述される(マルクスのいう上 向法)。  かくして弁証法は、<抽象=止揚>を武器とする対象の<内在的論理>解析法と、 それを前提とする<理論体系>構成という、方法的二重性において成立する。この <抽象=止揚>という発想を抜きに学的体系を構成すると、経験的実証的な「分析 法」を前提にする「総合法」にしかならない。

  もちろ ん、即物経験的方法でも、現実具体的な現象的姿態が孕む個別性・特殊性 をどんどん抽象していき、諸事象の共通性を抽出するという論理解析は当然おこな われる。これは科学的抽象の一つの在り方であり、個別は個別、特殊は特殊とふわ けし、普遍と個別特殊を切り離していく抽象作業である。しかしそれは、事物A、 B、C、D、E……に固有の内容的特質を切り捨て、事物の形式的共通性を分離・ 抽出するという形式主義的抽象であって、一定の限定に置いてのみ正当な方法であ り、これが唯一の科学的方法と固定化されると、誤謬に転化する。

 最後に、学的弁証法にいう「内的運動」概念について、補足したい。

  <内的運動>概念は、直接眼に見える物質の物理的・科学的な変化・運動(肉眼 で見えなくても顕微鏡や試薬を使えば直接<見える>)というような、現象レベル の「運動」過程に、単純に還元されるものではない。 また、資本主義社会の生成−発展−没落……というような、歴史的・時間的な現実 具体的変化・運動過程のレベルでいわれているものでもない。事象の現実具体的な 直接的姿態を、その複雑かつ多様な変化・運動的連関において把握するのは、経験 論的発想の本領であって、ヘーゲル・マルクス流のダイナミックな「内的運動」把 握は、その対極に立つ。

 事象に内在する客観的論理(現象−構造−本質)を、

本質→構造→現象

というダ イナミックな「過程的構造」(本質が、自らの本質に見合った構造的仕組みと現象 的諸相を具体化していく)として捉え返せば、<内的運動>概念が成立する。

 この「過程的構造」はまた、「過程の複合体」という表現でも言い換えられる。そして「複合 体」全体を、<内部統一的な論理的連関>としてよりスタティックに捉え返せば、 三浦がいう「関係概念で媒介構造を把握」することになる。

  この「媒介構造」内部で、全体を構成する個別的・特殊的諸契機(モメント)< A−B−C−D−E……>を、<内部統一的な論理的連関>において把握せず、直 接それ自体機械的にバラバラに把握し、固定的静止的に実体的的“諸要素”として 捉えるとならば、即物実体論へと転落する。 また、事象の現象的過程を、複雑かつ多様な機能・作用、変化・運動的連関という 直接の現象的姿態のレベルでそのまま抽象し、それ自体を個別に、バラバラに把握 するのが、“そんなのは現象論にすぎない”というときの現象論とか、機能主義的 発想ということになる。

 抽象的一般的な本質論(本質規定)を提起するだけではなく、その本質論が構造 論的に具体化され、本質論・構造論に媒介された現象過程の現状分析を提出してい るか否かに、科学者の理論的力量があるといえるだろう。【補注】

 たとえば、法学で問題になる「再審の困難性」(最終審判決の確定力)というよ うな事態で考えてみよう。

  この問題は、司法とはなにか?……という三権分立論と権力一般論を前提に、それ に媒介されるかたちで理論的に分析されなければならない。最終審判決の強固な確 定力は、司法権というものの本質から<必然>的なものであるというように。分析 は、ある現実具体的な個別的事象が生起する背後の仕組み(構造)を把握し、さら に、その仕組み(構造)自体が、国家権力・権力の一般的な在り方にどう規定(媒 介)されているか?……という、本質論的解明でなければならない。

【補注】

  もちろん、別に科学者でなくとも、優れた思想家や批評家、あるいは芸術家など が、事象に内在する本質を鋭く捉え、断章的に提起するようなこともありえる。だ が、その場合には、現象→構造→本質という、科学的な論理解析プロセスの所産と して本質論を提起しているというより、    現象→(構造)→本質  という、論理的直感力による本質理解のプロセスを取り、いわば、個人的資質と しての天才性の発露というべきものになる。

   以上の論述を踏まえ、つぎに、弁証法が社会科学に占める方法的意味を、考察し てみることにしよう。

 三浦は『弁証法はどういう科学か』(講談社)の中で

、「弁証法は一言で言えば 『対立物の統一に関する学問』であり、『物ごとの本質そのものにおける矛盾の研 究』を中心におく」(25頁)

  という簡潔な定義を提出している。この規定は、誤 解を招く言い方であるように思う。  弁証法は、数学や物理学、政治学や経済学のような、固有の特殊な学的対象領域 を有する個別科学ではない。正しくは、事象を「対立の統一」において把握する 「学問」的方法としなければならない。

 また、方法といっても、自然科学や社会科 学、個別科学の方法とも論理的レベルが異なっている。この点に関して、三浦は、 エンゲルス『反デューリング論』に依拠しながら、次のように述べている。

「…… たしかにマルクス主義では、唯物弁証法を正しい認識方法ないし研究方法と 主張しているし、それには違いないのだが、これは、自然・社会・思惟の全体をつ らぬく普遍的な運動と発展をとらえるだけに、長所が同時に短所にもなっている。 広範な分野で有効な鋭い武器ではあるが、そのまま個別科学の具体的な研究方法に はなりえない」(『認識と芸術の理論』勁草書房177頁)

さすが三浦!と膝をうちたくなるような見地である。

  弁証法は、「あらゆる事物」を捉える極めて高度に一般的・抽象的な方法である。 しかし、「あらゆる事物」を捉えるということは、逆にいえば、「あらゆる事物」 の学的解明に「直接」役立つ方法ではない……ということにもなる。固有の<特殊 >な学的対象領域を超越した高度な方法的<一般性>という「長所」が、そのまま 「短所」になるのであって、これは弁証法の<方法>的パラドクスというべきもの である。

 三浦のいう弁証法の「短所」については、滝村も、社会科学のレベルから次のよ うに述べている。

「…… 史家が提供する個別的事実と高度の原理的把握と抽象とでは、何といっても 論理的抽象のレヴェルが質的に異なっている。もちろん、あらゆる事物を生成・発 展・消滅の運動過程において把える弁証法は、扱う対象的事物の自然的・社会的・ 精神的の如何を問わない、高度の方法的一般性の故に、直接役には立たない。あく まで歴史的・社会的事象としての特質に対応した、社会科学としての一般的方法論 が要請される。マルクスの唯物史観における歴史観としての、〈世界史〉の発展史 観こそ、実はかかる特殊な方法的要請に真向うから対応したものであった。

 ところ が、かかる唯物史観の存立に直接関わる根本の方法的把握が、マルクス主義・非マ ルクス主義を問わず、これまで私以外の誰によっても主張されたことがないのであ る」(『国家の本質と起源』勁草書房20頁)

「あ らゆる事物を生成・発展・消滅の運動過程において把える弁証法」という章句 の「あらゆる」に、滝村は傍点を施している。 「真に偉大な人間は自らを限定できる人間である」(ゲーテ)といわれるが、この 格言は、学問の方法においても通用するものである。すなわち、学的方法論という ものは、その適用範囲を無限定に「あらゆる」ところにもつことなく、その適用範 囲を一定の条件のもとに<限定>しなければならない。

 こ れまで、弁証法が「長所」を発揮しうる<限定>された条件とは、どのような ものなのか?……、その「短所」との連関において具体的に明らかにされてはこな かった。 「長所」と「短所」を非弁証法的に切り離して、“弁証法は世界の連関・運動法則 に関する科学である”とか、世界は相互に連関し生成−発展−消滅過程にあり、弁 証法はそれを捉える学問だ”という風に位置付けられ、あらゆる個別科学を超えた 高度な“一般科学的方法”というような、<限定>された条件を無視した哲学的発 想が、跳梁跋扈してきた。いわゆるマルクス主義哲学がその典型である。

  マルクス主義は、その壮大な理論科学的体系が、直接そのまま党派的なイデオロ ギー的性格を持つ。この理論と思想の直接的同一性を支えているのは、「弁証法的 唯物論はマルクス=レーニン主義党の世界観である」(スターリン『マルクス主義 と言語学の諸問題』大月文庫96頁)という発想である。

 世界を“総体”として弁証法的に捉え切ったという意味で、弁証法的唯物論は科 学的な世界観であり、あらゆる事物を生成・発展・消滅の運動過程において把える 唯物弁証法は、世界全体の正しいマルクス主義的認識方法ないし研究方法だと、位 置づけられる。

  そして、世界総体を科学的に捉える世界観と、それを可能とする弁証法方法を体 得し、自らを一大machtとして党派的に結集・組織化しえたら、理論的にも思 想的にも実践的にも、文字通り「世界をその掌に載せる」ことも可能になる。  そこでマルクス主義者は、“正しい”世界観(弁償的唯物論)と“正しい”学的 方法(唯物弁証法)を“学習”することに全力を傾注し、その“学習”がそのまま “正しい”学問の途ということにもなる。

 この“学問=学 習”発想は、思考の基本枠組みを先験的に設定する発想だから、 まずは方法ありきというカント的アプリオリズム(ヘーゲルの方法とは対極に立つ) と親和性が高く、マルクス主義哲学陣営では、カント的に色づけられたヘーゲリア ン・マルクシズム派が大きな影響力を持った。これが、唯物弁証法を「世界観」レ ベルで位置づけるというスローガンの正体である。  弁証法を「世界観」レベルで位置づけるといえば聞こえはいいが、実際やられて きたことは、

a)“世界全体は弁証法的構造を孕んでいる”という命題をアプリオリに設定し、 弁証法を絶対的真理の方法として現実の「世界」に押しつけ、「世界」全体を“解 釈”する哲学的アプリオリズム

b)資本制社会はその内在的矛盾の爆発により歴史必然的にプロレタリア独裁を帰 結するという、科学と願望を取り違えた“歴史の弁証法”

の 提出でしかなかった。  たしかに、現実の世界は、直接眼には見えない事象の内的深部に、弁証法性を孕 んでいる。 しかし、その弁証法性を現実に掬い上げるのは、世界の全体を“全体” のまま取り扱い、あらゆる個別科学を超越する、“一般科学的方法”の類いではな い。“一般科学的方法”が成り立つほど、現実の世界の構造は単純ではないし、そ もそも、個別科学を超越する“一般科学”という発想自体が、現実の世界に関する “哲学”的理解にすぎず、厳密には科学的発想ではないのである。

  三浦つとむもまたマルクス主義哲学者として、この種の弁証法主義的発想とは無 縁ではなかった。しかし、マルクス主義哲学者・三浦ではなく科学者・三浦(言語 学者)は、現実の世界を“全体”として解明する万能の“一般科学的方法”として 唯物弁証法を振り回すことなく、弁証法という方法の「抽象性」とその「限界」を きちんと弁えてもいたのである。

 三浦は、エンゲルスの 「哲学一般はヘーゲルをもって終了した」という名言を繰 り返し繰り返し強調した。このエンゲルスの金言の厳密な意味は、あらゆる個別科 学を超え世界を“全体”として解明するような“一般科学”的発想は、もはやヘー ゲルを最後に終焉したということなのである。  この点を、もう少し具体的にみていくことにしよう。

  現実的世界の「あらゆる事物」は、その<直接>的姿態においては、自然的・社 会的・精神的事象として存在する。  さらに、その自然的事象、社会的事象、精神的事象も、その個々の具体的在り方 をみれば、たとえば社会的事象は、政治的事象、経済的事象などの特殊性・個別性 を帯びた現実具体的事象として、存在する。

 もちろん、自 然的・社会的・精神的諸事象も(更に、政治的、経済的事象、認識 ・表現・言語・記号などの精神的事象なども)、それ自体孤立して存在するのでは なく、複雑多様に絡み合い、分かち難く相互に連関し、相互媒介的に規定し合いな がら存在している。 この現象的な<連関>“だけ”に着目して、“世界の一切は絶えず変化し生成−発 展−消滅の運動過程にある”などと言い、その実例を事実的に列挙するのが、いわ ゆるマルクス主義哲学の“世界観レベルでの弁証法的唯物論と唯物弁証法”なる代 物である。 しかし、そんなものが、世界の現実具体的な構造的に即した学問的解明でもなんで もないということは、歴史が証明した。いまや、

“世界の一切は絶えず変化し生成 −発展−消滅の運動過程にある?……”んなもん、当たり前だ! 弁証法なんぞと 小難しい理屈を使わなくても、諸行無常の一言で済む”

と 切って捨てられて終りで ある。  現象レベルの世界の<連関>は、あくまでも、自然的・社会的・精神的諸事象 (更に、政治的、経済的事象、言語的事象などの各種領域)としての分化的実存が 前提になっている。<分化>しつつたえず現象的に相互に<連関>しているのが現 実の「世界」の在り方である。  こういう現実「世界」の在り方に規定され、個別科学の分化的独立と発展が。必 然化される。現実の「世界」に客観的に内在する弁証法的性格の学的把握は、“弁 証法学”でも“一般科学”でもなく、個別科学の任務ということになる。

  現実の世 界の弁証法性を掬い上げるためには、自然的事象なら自然的事象に即して、社会的 事象なら社会的事象に即して、精神的事象なら精神的事象に即して、まず解明され なければならない。 社会的事象の場合、近代以降、政治的社会構成と経済的社会構 成へと分化的に発展している歴史構造を踏まえ、政治的事象は政治的事象に即して、 経済的事象は経済的事象に即して解明されなければならない。 要するに、「世界」の弁証法性は、個別科学というかたちで、重層的立体的な<弁 証法的体系>を個別に構築することによって掬い上げられる。

 <個別・特殊は普遍 を孕む>

 という弁証法の金言は、個別科 学と弁証法の関連においても原理的に貫徹 するのであって、弁証法は、個別科学に深く静かに内在するかたちでしか存在しな いのである(もちろん、個別科学と個別科学の関係、その学際的連関・連携は、諸 個別科学の存在を前提に、クロスオーバーするかたちで実現されるのは、いうまで もない)。

  以上述べたことを学的<方法>の問題として 捉えれば、三浦が言うように、弁 証法は「そのまま個別科学の具体的な研究方法にはなりえない」ということになる。  政治学には政治的事象の内在的特質に規定された個別の<方法>が、社会科学に は社会科学に固有の特殊な<方法>が開拓されなければならない。  先にも述べたように、弁証法は、自然・社会・精神の別を問わず、事象の一般的 な<内的論理>(現象−構造−本質)を純粋に捉える方法、つまり、自然・社会・ 精神的事象に共通する<論理>的な在り方一般を抽出し、それを体系的に組み上げ る方法である。

 滝村がいうように、弁証法それ自体は極め て「高度に抽象的」なものであって、 自然的・社会的・精神的事象(更に、政治的、経済的事象、言語的事象などの各種 領域)それぞれに固有の内在的特質は、論理的に抽象=捨象されている。政治はど ういう現象−構造−本質か?……経済は具体的にはどういう現象−構造−本質か? ……「どういう」固有の特性を持っているかは、一切捨象されているのである。 (この論理的抽象=捨象は、論理的抽象=止揚と同じではないことに注意)。

  ということは、これを方法的にみれば、現象−構造−本質という一般的論理を純 粋に抽出した弁証法から、いきなり、自然・社会・精神の内容的特質に即した具体 的な社会科学方法論や政治学方法論が、上向的に導き出されていく(本質が以て自 らの本質を実存的に顕現していく)ようなものではない、ということを意味してい る。

 個別科学の学的体系内部で、たとえば、権力一般論→ 国家論へと展開するのとは違 い、唯物弁証法→唯物史観→社会科学へと上向するわけではない。自然・社会・精 神の内容的特質を弁証法から直接上向的に復元できないということは、いいかえれ ば、弁証法を社会科学や自然科学に無媒介に適用できないということでもある。 ということは、対象に固有の特殊・個別的な<方法>ぬきで、弁証法をそれ自体振 り回しても、なんの意味もないということにもなる。そういう「対象超越的」な高 度に一般的抽象的方法を、たとえば社会科学や政治学に直接無媒介に“適用”しよ うとしても、そもそも不可能ということになるだろう。あえて“適用”しようとす れば、“原子共産主義→階級社会→共産主義は否定の否定”というようなレベルで 低迷せざるをえない。

弁証法が、自然・社会・精神の内容的な特質を完全に捨象(止揚ではなく)し た、高度に「対象超越的」な方法であり、「自然・社会・思惟の全体をつらぬく普 遍的な運動と発展をとらえるだけに、長所が同時に短所にもなっている」というの は、そういう意味なのである。

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