探究 三浦つとむ・滝村隆一に学ぶ

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    以上、三権分立論に即して、弁証法的な理論構成の<媒介=止揚関係>をみてきた。

 学的な理論体系というものを、本質の自己発展的顕現(媒介=止揚関係の展開)と して捉えるところが、ヘーゲル・マルクスの学的弁証法の核心であるが、この論理 が極めて難解であるのは、<本質=関係>概念が二重化しているところにある。 この二重性を理解するため、まず、ヘーゲルの章句を引用してみることにしたい。

「日常生活でWesenという言葉が用いられる場合、それはしばしば総括とか総 体とかいう意味しか持っていない。例えば、人々は、Zeitungswesen (ジャーナリズム)とか、Postwesen(郵便制度)とか、Steuerw esen(租税制度)、等々と言う。そしてそれらの意味するところは大体、これ らの事柄がその直接態において個別的にではなく、複合体として、そしてさらにま たさまざまな関係において理解されねばならないということである。Wesenと いう言葉のこうした用い方には、大体においてではあるが、本節に本質として示さ れたものが含まれている」(『小論理学』112節補遺 岩波文庫下巻10頁)

 ここでヘーゲルは、事象を「その直接態において個別的にではなく、複合体」と して、「さまざまな関係」として把握することが、<本質>的把握なのだと言って いる。

 つぎに、ヘーゲルの弟子マルクスのあまりにも有名な「フォイエルバッハ・テーゼ (六)」を見てみよう。

「人間の本質とは、個々の個人の内部に宿る抽象体なのではない。それは、その現 実の在り方においては、社会的諸関係の総体なのである」(『新編輯版 ドイツ・ イデオロギー』岩波文庫 廣松渉編訳 237頁)

 この章句も、ヘーゲル的な<本質=関係>の論理から捉えられなければならない。 ヘーゲルとマルクスにとって、「本質」というものは、事物の内部に実在する、な にか抽象的実体的なモノではない。したがって、対象の本質規定を抽出する論理的 作業は、キャベツの皮を剥いていき最後の最後にかちッとした芯を取り出す……よ うなものではない。「フォイエルバッハ・テーゼ(六)」を、比喩的にイメージす ると、ラッキョウの皮を一枚一枚剥いていくと最後はなにも残らない、“ラッキョ ウ自体”のような本質的抽象体があるのではない。ラッキョウの本質は、ラッキョ ウの皮の総体でしかない……、ということになるだろう。

  こういう本質観に立脚すれば、 もっとも抽象的一般的な<本質>規定もまた、<本質>論的に把握されることに なる。すなわち、抽象的な本質規定それ自体が<関係>概念として構成されざるを えない。

 滝村の権力一般論を例に上げると、権力の<本質>規定は、権力をその直接的な 姿態において、「権力=支配力」をなにか即物実体的なモノとして、捉えるもので はない。<権力>を、<規範を軸とする意志の支配−服従関係>として、<関係> 概念レベルで捉えている。

 そして、この<意志の支配−服従関係>を、規範それ自体の「内的運動」に即して捉え返せ ば、規範の形成(意志の対象化)−支配(諸個人の服従)という、対象化された意 志(規範)と諸個人の生きた意志との<矛盾>として把握することになる。  抽象的一般的な本質的規定そのものが<関係>概念として構成されているという のは、このような意味である。

 この対象の本質論的解明とその理論構成が、重層的・立体的な<媒介=止揚関係 >の体系的展開を必然化する、というレベルで、<本質>は<関係>である。  体系的な理論というものは、抽象的一般的な<本質=関係>概念を、体系展開の ための<始元=論理的端緒>とする。 この<始元=論理的端緒>としての<本質=関係>概念は、<以て自らの本質を顕 現していく>かのような、概念の自己発展的な上向的具体化の行程を取る。抽象的 な一般的規定(本質=関係概念)がより高いレベルで「理論的に再現」され、その 一定の段階それ自体もまた、更にもう一段高いレベルへと<止揚>され……という、 重層的・立体的な<媒介=止揚関係>の体系的展開となる。

 ということは、最も抽象的な本質規定それ自体が><関係>概念であるばかりか、そ の<関係>規定→より実体的・機能的諸概念A→B→C→D→E……の展開は、体 系的な諸契機の有機的統一的・相互媒介的な<関係>概念の複合体ということにも なり、<関係>は二重のレベルで構成されることになるのである。

   以上の議論を踏まえて、学的弁証法とはなにか?……自分なりの理解を提示し、 併せて、<本質=関係>概念と<内的運動>概念の関係についても述べてみたい。

  社会的事象に固有の内部構造は、たとえば電子顕微鏡で原子の構造を直接<見 る>ようなわけにはいかない。社会科学は、実験的実証や厳密な数学的論証で真理 を確定しがたい特殊な性格をもっている。 社会的歴史的事象に内在する真理性を論理的に把握し、科学的真理として確定し開 示するための武器は、<抽象力>しかない。マルクス曰く、

社会科学においては、 「顕微鏡も試薬も訳に立たない。抽象力がそれに取ってかわらなければならない」 (『資本論』第一巻「第二版あとがき」)。

 そしてマルクスのいう「抽象力」を<止揚>と捉え返せば、弁証法の方法的核心 を言い当てたことになる。

 弁証法という方法は、まず、事象の直接的姿態の背後に控える、直接眼には 見えない(経験実証的に不可視の)内的な論理構造へと分析を進め、事象を事象た らしめる抽象的一般的本質規定を抽出していく(マルクスのいう下向法)。 この下向法的分析を内容的にみると、研究主体が現実的事象を正面に据えて論理的 分析力(抽象力)を働かせ、対象的事象に客観的に内在する   

       現象−構造−本質

         機能−実体−関係  

        個別−特殊−普遍

 という論理的連関に即して、現象→構造→本質へと抽象=止揚していく。[補注 3]

   そして、 論理的解析により抽出された抽象的一般的本質規定を、ヘーゲル的にいえば< 始元>(論理的端緒)として据え、本質規定を構造論的に具体化(本質が、自らの 本質に見合った構造的仕組みと現象的諸相を理論的に再現)していく。 この具体的展開は、<本質が以て自らの本質を顕現・開花・発展させていく>かの ような、概念の自己運動・顕現行程として体系的に叙述される(マルクスのいう上 向法)。  かくして弁証法は、<抽象=止揚>を武器とする対象の<内在的論理>解析法と、 それを前提とする<理論体系>構成という、方法的二重性において成立する。この <抽象=止揚>という発想を抜きに学的体系を構成すると、経験的実証的な「分析 法」を前提にする「総合法」にしかならない。

  もちろん、即物経験的方法でも、現実具体的な現象的姿態が孕む個別性・特殊性 をどんどん抽象していき、諸事象の共通性を抽出するという論理解析は当然おこな われる。これは科学的抽象の一つの在り方であり、個別は個別、特殊は特殊とふわ けし、普遍と個別特殊を切り離していく抽象作業である。しかしそれは、事物A、 B、C、D、E……に固有の内容的特質を切り捨て、事物の形式的共通性を分離・ 抽出するという形式主義的抽象であって、一定の限定に置いてのみ正当な方法であ り、これが唯一の科学的方法と固定化されると、誤謬に転化する。

 最後に、学的弁証法にいう「内的運動」概念について、補足したい。

 <内的運動>概念は、直接眼に見える物質の物理的・科学的な変化・運動(肉眼 で見えなくても顕微鏡や試薬を使えば直接<見える>)というような、現象レベル の「運動」過程に、単純に還元されるものではない。 また、資本主義社会の生成−発展−没落……というような、歴史的・時間的な現実 具体的変化・運動過程のレベルでいわれているものでもない。事象の現実具体的な 直接的姿態を、その複雑かつ多様な変化・運動的連関において把握するのは、経験 論的発想の本領であって、ヘーゲル・マルクス流のダイナミックな「内的運動」把 握は、その対極に立つ。

 事象に内在する客観的論理(現象−構造−本質)を、

本質→構造→現象

というダ イナミックな「過程的構造」(本質が、自らの本質に見合った構造的仕組みと現象 的諸相を具体化していく)として捉え返せば、<内的運動>概念が成立する。

 この「過程的構造」はまた、「過程の複合体」という表現でも言い換えられる。そして「複合 体」全体を、<内部統一的な論理的連関>としてよりスタティックに捉え返せば、 三浦がいう「関係概念で媒介構造を把握」することになる。

 この「媒介構造」内部で、全体を構成する個別的・特殊的諸契機(モメント)< A−B−C−D−E……>を、<内部統一的な論理的連関>において把握せず、直 接それ自体機械的にバラバラに把握し、固定的静止的に実体的的“諸要素”として 捉えるとならば、即物実体論へと転落する。 また、事象の現象的過程を、複雑かつ多様な機能・作用、変化・運動的連関という 直接の現象的姿態のレベルでそのまま抽象し、それ自体を個別に、バラバラに把握 するのが、“そんなのは現象論にすぎない”というときの現象論とか、機能主義的 発想ということになる。

 抽象的一般的な本質論(本質規定)を提起するだけではなく、その本質論が構造 論的に具体化され、本質論・構造論に媒介された現象過程の現状分析を提出してい るか否かに、科学者の理論的力量があるといえるだろう。【補注】

 たとえば、法学で問題になる「再審の困難性」(最終審判決の確定力)というよ うな事態で考えてみよう。

 この問題は、司法とはなにか?……という三権分立論と権力一般論を前提に、それ に媒介されるかたちで理論的に分析されなければならない。最終審判決の強固な確 定力は、司法権というものの本質から<必然>的なものであるというように。分析 は、ある現実具体的な個別的事象が生起する背後の仕組み(構造)を把握し、さら に、その仕組み(構造)自体が、国家権力・権力の一般的な在り方にどう規定(媒 介)されているか?……という、本質論的解明でなければならない。

【補注】

 もちろん、別に科学者でなくとも、優れた思想家や批評家、あるいは芸術家など が、事象に内在する本質を鋭く捉え、断章的に提起するようなこともありえる。だ が、その場合には、現象→構造→本質という、科学的な論理解析プロセスの所産と して本質論を提起しているというより、    現象→(構造)→本質  という、論理的直感力による本質理解のプロセスを取り、いわば、個人的資質と しての天才性の発露というべきものになる。

Ⅱ弁証法と社会科学

   以上の論述を踏まえ、つぎに、弁証法が社会科学に占める方法的意味を、考察し てみることにしよう。

 三浦は『弁証法はどういう科学か』(講談社)の中で

、「弁証法は一言で言えば 『対立物の統一に関する学問』であり、『物ごとの本質そのものにおける矛盾の研 究』を中心におく」(25頁)

 という簡潔な定義を提出している。この規定は、誤 解を招く言い方であるように思う。  弁証法は、数学や物理学、政治学や経済学のような、固有の特殊な学的対象領域 を有する個別科学ではない。正しくは、事象を「対立の統一」において把握する 「学問」的方法としなければならない。

 また、方法といっても、自然科学や社会科 学、個別科学の方法とも論理的レベルが異なっている。この点に関して、三浦は、 エンゲルス『反デューリング論』に依拠しながら、次のように述べている。

「……たしかにマルクス主義では、唯物弁証法を正しい認識方法ないし研究方法と 主張しているし、それには違いないのだが、これは、自然・社会・思惟の全体をつ らぬく普遍的な運動と発展をとらえるだけに、長所が同時に短所にもなっている。 広範な分野で有効な鋭い武器ではあるが、そのまま個別科学の具体的な研究方法に はなりえない」(『認識と芸術の理論』勁草書房177頁)

さすが三浦!と膝をうちたくなるような見地である。

 弁証法は、「あらゆる事物」を捉える極めて高度に一般的・抽象的な方法である。 しかし、「あらゆる事物」を捉えるということは、逆にいえば、「あらゆる事物」 の学的解明に「直接」役立つ方法ではない……ということにもなる。固有の<特殊 >な学的対象領域を超越した高度な方法的<一般性>という「長所」が、そのまま 「短所」になるのであって、これは弁証法の<方法>的パラドクスというべきもの である。

 三浦のいう弁証法の「短所」については、滝村も、社会科学のレベルから次のよ うに述べている。

「……史家が提供する個別的事実と高度の原理的把握と抽象とでは、何といっても 論理的抽象のレヴェルが質的に異なっている。もちろん、あらゆる事物を生成・発 展・消滅の運動過程において把える弁証法は、扱う対象的事物の自然的・社会的・ 精神的の如何を問わない、高度の方法的一般性の故に、直接役には立たない。あく まで歴史的・社会的事象としての特質に対応した、社会科学としての一般的方法論 が要請される。マルクスの唯物史観における歴史観としての、〈世界史〉の発展史 観こそ、実はかかる特殊な方法的要請に真向うから対応したものであった。

 ところ が、かかる唯物史観の存立に直接関わる根本の方法的把握が、マルクス主義・非マ ルクス主義を問わず、これまで私以外の誰によっても主張されたことがないのであ る」(『国家の本質と起源』勁草書房20頁)

「あらゆる事物を生成・発展・消滅の運動過程において把える弁証法」という章句 の「あらゆる」に、滝村は傍点を施している。 「真に偉大な人間は自らを限定できる人間である」(ゲーテ)といわれるが、この 格言は、学問の方法においても通用するものである。すなわち、学的方法論という ものは、その適用範囲を無限定に「あらゆる」ところにもつことなく、その適用範 囲を一定の条件のもとに<限定>しなければならない。

 これまで、弁証法が「長所」を発揮しうる<限定>された条件とは、どのような ものなのか?……、その「短所」との連関において具体的に明らかにされてはこな かった。 「長所」と「短所」を非弁証法的に切り離して、“弁証法は世界の連関・運動法則 に関する科学である”とか、世界は相互に連関し生成−発展−消滅過程にあり、弁 証法はそれを捉える学問だ”という風に位置付けられ、あらゆる個別科学を超えた 高度な“一般科学的方法”というような、<限定>された条件を無視した哲学的発 想が、跳梁跋扈してきた。いわゆるマルクス主義哲学がその典型である。

 マルクス主義は、その壮大な理論科学的体系が、直接そのまま党派的なイデオロ ギー的性格を持つ。この理論と思想の直接的同一性を支えているのは、「弁証法的 唯物論はマルクス=レーニン主義党の世界観である」(スターリン『マルクス主義 と言語学の諸問題』大月文庫96頁)という発想である。

 世界を“総体”として弁証法的に捉え切ったという意味で、弁証法的唯物論は科 学的な世界観であり、あらゆる事物を生成・発展・消滅の運動過程において把える 唯物弁証法は、世界全体の正しいマルクス主義的認識方法ないし研究方法だと、位 置づけられる。

 そして、世界総体を科学的に捉える世界観と、それを可能とする弁証法方法を体 得し、自らを一大machtとして党派的に結集・組織化しえたら、理論的にも思 想的にも実践的にも、文字通り「世界をその掌に載せる」ことも可能になる。  そこでマルクス主義者は、“正しい”世界観(弁償的唯物論)と“正しい”学的 方法(唯物弁証法)を“学習”することに全力を傾注し、その“学習”がそのまま “正しい”学問の途ということにもなる。

 この“学問=学習”発想は、思考の基本枠組みを先験的に設定する発想だから、 まずは方法ありきというカント的アプリオリズム(ヘーゲルの方法とは対極に立つ) と親和性が高く、マルクス主義哲学陣営では、カント的に色づけられたヘーゲリア ン・マルクシズム派が大きな影響力を持った。これが、唯物弁証法を「世界観」レ ベルで位置づけるというスローガンの正体である。  弁証法を「世界観」レベルで位置づけるといえば聞こえはいいが、実際やられて きたことは、

a)“世界全体は弁証法的構造を孕んでいる”という命題をアプリオリに設定し、 弁証法を絶対的真理の方法として現実の「世界」に押しつけ、「世界」全体を“解 釈”する哲学的アプリオリズム

b)資本制社会はその内在的矛盾の爆発により歴史必然的にプロレタリア独裁を帰 結するという、科学と願望を取り違えた“歴史の弁証法”

の提出でしかなかった。  たしかに、現実の世界は、直接眼には見えない事象の内的深部に、弁証法性を孕 んでいる。 しかし、その弁証法性を現実に掬い上げるのは、世界の全体を“全体” のまま取り扱い、あらゆる個別科学を超越する、“一般科学的方法”の類いではな い。“一般科学的方法”が成り立つほど、現実の世界の構造は単純ではないし、そ もそも、個別科学を超越する“一般科学”という発想自体が、現実の世界に関する “哲学”的理解にすぎず、厳密には科学的発想ではないのである。

 三浦つとむもまたマルクス主義哲学者として、この種の弁証法主義的発想とは無 縁ではなかった。しかし、マルクス主義哲学者・三浦ではなく科学者・三浦(言語 学者)は、現実の世界を“全体”として解明する万能の“一般科学的方法”として 唯物弁証法を振り回すことなく、弁証法という方法の「抽象性」とその「限界」を きちんと弁えてもいたのである。

 三浦は、エンゲルスの「哲学一般はヘーゲルをもって終了した」という名言を繰 り返し繰り返し強調した。このエンゲルスの金言の厳密な意味は、あらゆる個別科 学を超え世界を“全体”として解明するような“一般科学”的発想は、もはやヘー ゲルを最後に終焉したということなのである。  この点を、もう少し具体的にみていくことにしよう。

  現実的世界の「あらゆる事物」は、その<直接>的姿態においては、自然的・社 会的・精神的事象として存在する。  さらに、その自然的事象、社会的事象、精神的事象も、その個々の具体的在り方 をみれば、たとえば社会的事象は、政治的事象、経済的事象などの特殊性・個別性 を帯びた現実具体的事象として、存在する。

 もちろん、自然的・社会的・精神的諸事象も(更に、政治的、経済的事象、認識 ・表現・言語・記号などの精神的事象なども)、それ自体孤立して存在するのでは なく、複雑多様に絡み合い、分かち難く相互に連関し、相互媒介的に規定し合いな がら存在している。 この現象的な<連関>“だけ”に着目して、“世界の一切は絶えず変化し生成−発 展−消滅の運動過程にある”などと言い、その実例を事実的に列挙するのが、いわ ゆるマルクス主義哲学の“世界観レベルでの弁証法的唯物論と唯物弁証法”なる代 物である。 しかし、そんなものが、世界の現実具体的な構造的に即した学問的解明でもなんで もないということは、歴史が証明した。いまや、

“世界の一切は絶えず変化し生成 −発展−消滅の運動過程にある?……”んなもん、当たり前だ! 弁証法なんぞと 小難しい理屈を使わなくても、諸行無常の一言で済む”

と切って捨てられて終りで ある。  現象レベルの世界の<連関>は、あくまでも、自然的・社会的・精神的諸事象 (更に、政治的、経済的事象、言語的事象などの各種領域)としての分化的実存が 前提になっている。<分化>しつつたえず現象的に相互に<連関>しているのが現 実の「世界」の在り方である。  こういう現実「世界」の在り方に規定され、個別科学の分化的独立と発展が。必 然化される。現実の「世界」に客観的に内在する弁証法的性格の学的把握は、“弁 証法学”でも“一般科学”でもなく、個別科学の任務ということになる。

 現実の世 界の弁証法性を掬い上げるためには、自然的事象なら自然的事象に即して、社会的 事象なら社会的事象に即して、精神的事象なら精神的事象に即して、まず解明され なければならない。 社会的事象の場合、近代以降、政治的社会構成と経済的社会構 成へと分化的に発展している歴史構造を踏まえ、政治的事象は政治的事象に即して、 経済的事象は経済的事象に即して解明されなければならない。 要するに、「世界」の弁証法性は、個別科学というかたちで、重層的立体的な<弁 証法的体系>を個別に構築することによって掬い上げられる。

 <個別・特殊は普遍 を孕む>

 という弁証法の金言は、個別科学と弁証法の関連においても原理的に貫徹 するのであって、弁証法は、個別科学に深く静かに内在するかたちでしか存在しな いのである(もちろん、個別科学と個別科学の関係、その学際的連関・連携は、諸 個別科学の存在を前提に、クロスオーバーするかたちで実現されるのは、いうまで もない)。

  以上述べたことを学的<方法>の問題として捉えれば、三浦が言うように、弁 証法は「そのまま個別科学の具体的な研究方法にはなりえない」ということになる。  政治学には政治的事象の内在的特質に規定された個別の<方法>が、社会科学に は社会科学に固有の特殊な<方法>が開拓されなければならない。  先にも述べたように、弁証法は、自然・社会・精神の別を問わず、事象の一般的 な<内的論理>(現象−構造−本質)を純粋に捉える方法、つまり、自然・社会・ 精神的事象に共通する<論理>的な在り方一般を抽出し、それを体系的に組み上げ る方法である。

 滝村がいうように、弁証法それ自体は極めて「高度に抽象的」なものであって、 自然的・社会的・精神的事象(更に、政治的、経済的事象、言語的事象などの各種 領域)それぞれに固有の内在的特質は、論理的に抽象=捨象されている。政治はど ういう現象−構造−本質か?……経済は具体的にはどういう現象−構造−本質か? ……「どういう」固有の特性を持っているかは、一切捨象されているのである。 (この論理的抽象=捨象は、論理的抽象=止揚と同じではないことに注意)。

 ということは、これを方法的にみれば、現象−構造−本質という一般的論理を純 粋に抽出した弁証法から、いきなり、自然・社会・精神の内容的特質に即した具体 的な社会科学方法論や政治学方法論が、上向的に導き出されていく(本質が以て自 らの本質を実存的に顕現していく)ようなものではない、ということを意味してい る。

 個別科学の学的体系内部で、たとえば、権力一般論→国家論へと展開するのとは違 い、唯物弁証法→唯物史観→社会科学へと上向するわけではない。自然・社会・精 神の内容的特質を弁証法から直接上向的に復元できないということは、いいかえれ ば、弁証法を社会科学や自然科学に無媒介に適用できないということでもある。 ということは、対象に固有の特殊・個別的な<方法>ぬきで、弁証法をそれ自体振 り回しても、なんの意味もないということにもなる。そういう「対象超越的」な高 度に一般的抽象的方法を、たとえば社会科学や政治学に直接無媒介に“適用”しよ うとしても、そもそも不可能ということになるだろう。あえて“適用”しようとす れば、“原子共産主義→階級社会→共産主義は否定の否定”というようなレベルで 低迷せざるをえない。

弁証法が、自然・社会・精神の内容的な特質を完全に捨象(止揚ではなく)し た、高度に「対象超越的」な方法であり、「自然・社会・思惟の全体をつらぬく普 遍的な運動と発展をとらえるだけに、長所が同時に短所にもなっている」というの は、そういう意味なのである。

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