探究 三浦つとむ・滝村隆一に学ぶ
 社会科学と人間科学の方法的差異
   −『国家論大綱』と三浦言語学−


はじめに−本稿の基本的視角
(1) 三浦の規範一般論と滝村の社会的規範論の異同
【補論  <普遍>と<一般>の弁証法的定義】
(2) ヘ−ゲル「限度」論と社会的規範論
(3) sozialwisenschaftとしての社会科学
(4) 社会科学的に特殊な<意志の観念的対象化>論
(5) 認識論的規範論から「国家意志説」への規定性


(4) 社会科学的に特殊な<意志の観念的対象化>論


以上が、社会的規範論の中に現れた社会科学的・政治学的に特殊な方法と、社会的存在としての現実的諸個人の特殊な理論的扱い方である。
認識論・言語学次元で構成された三浦の規範一般論との決定的な方法的相違はまさにこの点にあり、これは、三浦滝村どちらの規範論がレベルが上かというような問題で はない。そしてこの<方法>的相違のために、滝村の<意志の観念的な対象化>の説明が三浦とは異なって現れてもくる。次にこの点を見ていこう。

「……<禁酒・禁煙>という実践的な<意志>は、紙に書かれて、目の前に貼り出さ れる。それによってこの<意志>は、観念的に対象化され、外部的・客観的な<意志 >であるかに固定される。そこで、この貼り紙を見るたびに、<禁酒・禁煙>という <意志>に反した行動をしないように、その行動が観念的に規制される」

「……この <意志>が、紙の上の言語表現へと転じることによって、外部的・客観的な対象と化 した、特殊な観念的事象として現出してくることから、われわれはこれをヘーゲルにならい、<意志の観念的対象化>と呼ぶことにしよう」(同上 84頁

)  この叙述 は、「紙の上の言語表現に転じる」ことが即ち<意志の観念的対象化>であると読める。これは、認識論・言語学の次元で構成される意志・規範論のレベル で見れば、言い方として「不正確」というか誤解を招きかねない。意志が「紙の上の言語表現へと転じる」ことは、認識論的な意味での<観念的対象化>とイコールで はないからである。
「観念的に対象化された意志」としての「規範」は、個人(認識主体)の頭の中にしか存在しない「観念的存在」である。しかし、個人(認識主体)の頭の中にしか存在 しない「観念的存在」でありながら、それはあたかも、「外部的・客観的」に存在す るかのように、諸個人に対峙し、諸個人の実践的行動を、観念的に規制・拘束していく。
 たとえば、「禁酒」という自己規律は、個人の内面世界で、みずから創り出した 「禁酒するぞ!」という意志が<観念的に対象化>され、自分自身に向けて「禁酒しろ!」と、<外部>から命じるかたちをとって、維持されている。たとえ言語表現 (「禁酒するぞ!」と声に出して叫んだり、「紙の上に書いて」机の前に貼り出したり)しなくても、誘惑に負けそうなとき、「いや、だめだ、禁酒しなくては!」と頭 の中で自己規制し続ける限り、現実には頭の中にしか存在しないのに、あたかも、<外部的・客観的>に存在する命令であるかのように、その個人を規定・拘束し続ける。
 このようにみていけば、「紙の上の言語表現に転じる」こと即ち<意志の観念的対 象化>というわけではなく、その限りでは、『国家論大綱』の<意志の観念的対象化>規定は、認識論・言語学の次元で構成される意志・規範論のレベルで「不正確」ということもできるだろう。
 だが、滝村の叙述は、 国家論・政治学の次元ではこれで完全に正解なのである。
 なぜ、<人間主体>の意志が<観念的に対象化>され規範が成立することと、その 規範が「紙の上の言語表現に転」じることが同じではないにも関わらず、『国家論大綱』では、こういう叙述になったのか?
 答えは、国家・政治的事象において<意志の観念的対象化>とは、具体的には、意志が「紙の上の言語表現へと転じることによって、外部的・客観的な対象と化 」すこと以外では絶対にありえないからである。
歴史的・現実的な社会的権力組織soziale machtは、<規範>を軸に 構成される。
 <規範>は、諸個人を、「共通」にあまねく規制・拘束し、服従させ、 諸個人を、「組織的諸個人」「組織構成員」として<直接>包摂するための、中核的 基軸である。そして、<社会的権力組織>として発展したレベルを見るならば、「組織・制度としての一般意志」は、現実的諸個人に向けて、「言語表現」されるかたち でのみ、歴史的・現実的に成立する。
 この「組織・制度としての一般意志」の現実的在り方は、ちょうど「思想」という ものの在り方と似ているが、この点は、三浦の次の言葉が参考になる。

「われわれが自分の思想を他の人間に伝えようとする場合、精神から精神へ直接結び 付くことはありえない。精神それ自体が頭の中から抜け出して、空中を飛行し、他の 頭の中に入り込むなどということはありえない。それ故、人間相互の精神的な交通には、様々な<表現>が必要になる」(『唯物弁証法の成立と歪曲』勁草書房 200 頁)

「思想」の伝達は、具体的な<表現>に媒介されてはじめて現実に成立する。「社会 的規範」もまた、論理的に同じ意味で、「言語表現」に媒介されてはじめて<現実的>に存在し得る。「この点に関して、滝村は次のように述べている。

「……(意志)それ自体を、実体的な<もの>として固定し、保存することはできない。それ自体は、アッという間に消えて無くなってしまう、からである。しかしそれ では、多くの人々に指示し、伝達することができない。そこで、多くの人々を規制し拘束するところの、規範としての一般的性格にふさわしい一般的な形式が、採用され る」(『大綱』上巻 83〜4頁)

 現実的諸個人が組織的に結集する場合、社会的規範は、暗黙のうちに、諸個人の「頭の中に入り込む」わけではない。黙示され、以 心伝心のうちに、諸個人が、その黙示された「規範」を、「頭の中」に「複製」する わけではない。
「典型的な社会的規範」としての「組織的・制度的規範」は、「社会的・一般意志」という「一般的」性格にふ さわしい「一般的な形式」を取り、「言語表現」(特に文書で)されてはじめて、諸個人を、<社会的権力組織soziale macht>に包摂できる。
 もちろん、規模狭小で独立閉鎖的な村落地域社会で、掟や禁忌のような黙示的形態で「規 範」が成り立つことも、論理的にはありうるだろう。しかし、いかに規模狭小で独立 閉鎖的な村落地域社会でも、それが<社会組織>としての現実的構成を取るならば、そ の「掟」は、首長・祭司・長老・軍事指揮者たちの口頭命令や宗教的託宣というかたちで、言語表現形態を取って発せられるはずである。
 国家論・政治学の次元では、「組織的規範」 を正面に据え理論的に解明する場合、認識論におけるように<認識主体>の内面における規範の形成−発展 が直接問題になっているわけではない。あくまでも、組織に包摂された現実的<諸 個人>が問題であり、そこでは、黙示的な同意でも音声言語でもなく、明示的な文字言語のかたちに即して規範が取り上げられるのである。









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