探究 三浦つとむ・滝村隆一に学ぶ

探究 三浦つとむ・滝村隆一に学ぶ


 社会科学と人間科学の方法的差異
   −『国家論大綱』と三浦言語学−


はじめに ―本稿の基本的視角

(1) 三浦の規範一般論と滝村の社会的規範論の異同

(2) ヘ−ゲル「限度」論と社会的規範論

【 補論 <普遍>と<一般>の弁証法的定義 】

(3) sozialwisenschaftとしての社会科学

(4) 社会科学的に特殊な<意志の観念的対象化>論

(5) 認識論的規範論から「国家意志説」への規定性


はじめに−本稿の基本的視角


2003年、知る人ぞ知る在野の政治学者・滝村隆一が、『国家論大綱第一巻』(勁草書房)を上梓した。
簡単な紹介・短評はいくつかあるにしても、学会論壇では完全な黙殺状態にあり、評価するなり批判するなり正面からきちんと検討した論者は、これまでのところ一人もいない(注1)。残念なことである。
『国家論大綱』は、滝村の「健康・経済状態」(『国家論大綱』上巻「はじめに」)のため草稿レベルでの出版であり、未展開と思われる項目、もっと突っ込んで論じて欲しい箇所も多い。
 しかし、左であれ右であれ真ん中であれ、そのイデオロギー的立場に関わらず、そこから、有益な思想的武器を得ることができるだろう。
 私自身に関していえば、滝村国家論と『国家論大綱』に対する関心興味は、

(?)自分の思想的研鑽のための理論・科学的基礎として、滝村国家論に学ぶということ。

これが関心のメインである。
 滝村理論は、社会科学・政治学という学的特殊性のゆえに、<理論>的にも<思想>的にも極めて学び難い構造になっているが、理論そのものはけっして難解ではない。歴史と社会のダイナミズムを分かりやすく説得的に叙述している。

(?)社会科学レベルで展開されたヘーゲリアン・マルクシズムの学的方法の具体化、すなわち弁証法的論理の書として、『国家論大綱』を解読すること。

『国家論大綱』は、国家論・政治学書であると同時に、弁証法的な論理的思考力を養成するための有益な指南書にもなっている。

(?)滝村隆一と深い関わりがあった言語学者・三浦つとむの業績との関連を探るという関心興味

 滝村国家論とヘーゲル哲学との関連や、滝村理論の<思想>的意義に関しては、いずれ論じてみたいと思うが、ここでは、言語学者・三浦つとむの意志・規範論と、滝村国家論との学的関連に焦点を絞り検討を加えることとしたい。

   三浦言語学と滝村国家論の学的関係とその内容的な異同については、これまで一度も検討されてこなかったように思う。
 三浦は、人間主体の認識・観念、表現・言語・記号など「官許マルクス主義」のもっとも不得手な分野に切り込み、独創的な成果をあげた言語学者だが、その<直接>の理論的武器は、なんといっても意志・規範論であった。
 言語学以外にも、マルクス主義の基礎的諸概念の文献学的復元という仕事がある。
その中でもとくに「国家意志説」は、『ドイ ツ・イデオロギー』や『フォイエルバッハ論』などに断片的に記されていた「国家=イデオロギー的権力」論の復元・再構成を、意志・規範論の応用的具体化というかたちで展開している。
また、『大衆組織の理論』や『指導者の理論』なども、レーニン組織論を踏まえた意志・規範論の応用的具体化の 実例であり、現在でも読み継がれるべき作品であろう。
 三浦の業績は、意志・ 規範論を抜きにしては語れないのである。
 滝村隆一もまた意志・規範論を武器に、「官許マルクス主義」の最も苦手な分野の最たるもの、国家論を学的に構築した政治学者である。
 もっとも滝村自身は、三浦理論の「後継者」「完成者」ではない(『大綱』 上巻317頁)と明言している。
 三浦の「学的本領」が言語学にあり、自分(滝村)は言語学者ではないのだから「三浦言語学」の「後継者」「完成者」ではないし、ましてや三浦「哲学」などとは無縁である……という意味なら、それはその通りであろう。しかし大きく客観的に見れば、滝村が<科学者・三浦>の学統を受け継ぎ、ヘーゲル→マルクス→三浦の意志・規範論の流れにあることは間違いない。

 ただ、注意しなければならないのは、三浦と滝村は、それぞれの学的相違(三浦=言語学者、滝村=政治学者)に応じて、必然的に、その意志・規範論の内容も方法的位置付け方も異ならざるをえない、ということである。
三浦と滝村の意志・規範論は、一見するとたしかに“似て”いる。そのためか、二人の意志論を単純に同一視したり、三浦や津田道夫の「国家意志説」の単なる連続的な発展系としてしか、滝村国家論を捉えられないてこなかったように思う。
 だが、三浦の規範一般論と滝村の社会的規範論は、イルカとシャチが同じ哺乳類であるが故に“同じ”というレベルで、よく“似て”いるに過ぎない。イルカとシャチが別物であるように、やはり三浦と滝村の意志・規範論は、根本的に違っているのである。
 この相違は、両者どちらの規範論がレベルが上か?……というような問題ではない。
 政治学・国家論と言語学・認識論との学的対象領域に規定され、それぞれの意志・規範論の位置付け方が、違っているということなのだ。
 この相違を論理的に突き詰めていけば、権力論・国家論と認識論・言語学における<社会的存在としての人間>(滝村風にいえば「社会そのものとしての人間」)の理論的に取り扱い方、その位置付け方の相違に帰着する。
 たしかに、滝村政治学・国家論も三浦言語学・認識論も、<社会的存在としての人間>を対象とする点では、まったく同じである。
 しかし、その人間の(したがってまたその<社会>的性格の)位置付け方が根本から違い、この理論的相違は必然的に、認識論・言語学と権力論・国家論における意志・規範論双方の相違として、現れざるをえない。
この問題は、単に政治学と言語学の相違というにとどまらず、社会科学と人間科学との学的区別と連関はどういうものか?……を考える上で、極めて重要な問題である。すなわち、

A 社会的存在としての<諸個人>を学的対象として正面に据え(個人=人間個体ではなく)、その<物質的また精神的協働連関総体=社会>の論理構造を捉えていく<社会科学>

B  社会的存在としての<個人=人間個体>を学的対象として正面に据え(諸個人=結集した個人ではなく)、その<精神世界>の論理構造を探求する<人間科学>(あるいは<精神科学>)

の関係如何の問題である。

 以下の叙述で、この点を具体的に明らかにしていくつもりである。
 そして、この検討を通じて、規範論と権力論のレベルに限定する形で、滝村国家論の方法とりわけ世界史の発展史観を再確認し、あらためてその意義を強調するとともに、発展史観に現れた「質と量」に関わるヘーゲルの弁証法的発想も、指摘しておきたい。
  また、三浦の意志論・規範論と滝村の社会的規範論の差異が、その権力・国家論にどのような違いをもたらすのか、三浦「国家意志説」と滝村国家論との<質>的断絶についても、簡単に触れておくこととしたい。
 再び比喩を使えば、三浦「国家意志説」と滝村国家論は、ウナギ丼とアナゴ丼が“似て”いる程度において“似て”いるが、アナゴ丼とウナギ丼は同じではないという意味において、<質>が違っているのである。

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